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2019年10月31日 (木)

神経質礼賛 1680.主観的事実と客観的事実(1)

 神経症の人が訴える症状は本人にとっては非常に苦しい事実なのだが、客観性がないことが多い。不眠症で「全然眠れない」と訴えても、家族から話を聞くと「結構、眠ってますよ」ということはよくある。神経症の人が言う「不眠症」の正体は「不眠恐怖」なのであって、眠れないと体に障るからとても心配である、家族が眠っていると言っても、自分としては眠れていないから、そのせいで頭がスッキリしなくて仕事や勉強ができない、というようなものである。対人恐怖のため人前で激しく緊張して赤面し頭の中が真っ白になってしまうと訴える人でも、はたから見れば本人が思っているほど緊張しているようには見えず、やらせれば人前で話すことも何とかできるのである。それでも本人にとって人前で話すことはやはり恐ろしい。このように神経症の人にありがちな「事実」の乖離を森田正馬先生は、主観的事実と客観的事実という言葉で説明しておられる。

 例えば心臓麻痺恐怖の人があるとする。医者が心臓は大丈夫だという。それは、客観的事実である。しかし本人はやはり怖い、これは主観的事実である。このとき患者は大丈夫だという客観的事実と、自分は怖がる者であるという主観的事実とを認めなければならない。それがありのままである。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.159-160)

 素直に客観的事実を認めずに主観的事実だけを言い立てていたのでは、いつまでも症状の呪縛から脱却できない。のちに高弟の高良武久先生が神経症者の訴える症状は「主観的虚構性」(680話)を帯びている、と説明しておられた。これも主観的事実と客観的事実の乖離について述べたものだ。現代の認知療法あるいは認知行動療法では認知の歪みとして説明されるものであるが、森田療法でははるか以前から説明がなされていたのである。

2019年10月27日 (日)

神経質礼賛 1679.スマホの買替

 格安スマホ(1195)を買って4年余り経過。だんだんバッテリーの消耗が早くなってきた。消費税率アップ前に買替えようかどうしようかと思いながら見送ったけれども、ここにきて急激に状況が悪化。節約モードになっているはずなのに、フル充電しても半日で残り0%となって切れてしまう。昔のケータイならば、交換バッテリーを買ってすぐに交換できたが、今のスマホではそうはいかない。それに、パソコンと同様、年々ハードの性能が上がってきていて、その分ソフトも重くなってきているから古い機種だと動きが遅くなってしまう。思い切って買換えることにした。

 日曜日の今朝、前のスマホを買った家電量販店の開店直後を狙って入店。すぐに店員さんを捕まえることができた。機種はすぐに決まる。2年間の保証料を払うとデータ移行サービスもやってくれるというので、それを頼んで待ち時間に家の食材を買って一旦帰宅し約束の時刻にもう一度店に行く。古いスマホは下取りの形で処分してもらったのでスッキリ片付く。新しいものは画面が大きくなったので老眼でも見やすい。処理速度も速くなり、次の画面に移るまで待たされてイライラすることもなくなったのはありがたい。使い慣れるまでにはまだ時間がかかりそうだ。

今度はバッテリーの寿命に気を配っていこうと思う。過充電や頻回の充電はバッテリーの寿命を縮めると言われている。今までは毎晩、充電器に繋いでおいて朝はずして持ち出していた。これでは雨が降っていても水やりをする神経質者のようなものである。あまり減っていない時には無理に充電しないように気を付けよう。

2019年10月24日 (木)

神経質礼賛 1678.藤原定家は神経質か

 今週のBS-TBSの歴史鑑定は、「百人一首藤原定家からの挑戦状」というテーマで興味深かった。百人一首には番号が付いていて、1番・天智天皇、2番・持統天皇の親子から始まり、99番・後鳥羽院、100番・順徳院の親子に終わることは御存知かと思う。大化の改新で天皇中心の国家を作り上げた天智天皇、天智の弟・天武天皇の妻となり自らも天皇となった持統天皇は後の奈良時代・平安時代の政治文化の基礎を作った存在である。そして、定家の時代に後鳥羽院・順徳院は承久の変を起こして鎌倉幕府に敗れて流刑となり、天皇・貴族の政治文化の終焉を決定づけた。後鳥羽院の「人も惜し 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は」の歌は恨み節に聞こえるし、順徳院の「ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり」は懐古の歌と思える。いわば約600年にわたる天皇・貴族文化の歴史を象徴するような和歌を集めたとも言える。百人一首は元々、藤原定家(1162-1241)の嫡男・為家の妻の父親で定家とも親交のあった蓮生(れんしょう:宇都宮頼綱)から山荘の襖に貼る色紙を依頼されたものである。この宇都宮家は鎌倉幕府の有力御家人だったが、謀反の疑いをかけられて一族全員出家したといういきさつがある。それゆえ、蓮生は不遇のうちに亡くなっていった歴史上の人物の鎮魂をしようという意図で定家に依頼したのだという。そして、当初に定家が撰んだ「百人秀歌」には後鳥羽院・順徳院は含まれていなかった。嫡男の為家が後に手を加えたと考えられる。そもそも後鳥羽院・順徳院という呼称は定家の死後のことである。定家は後鳥羽院に和歌の能力を高く評価されて出世を後押しされているので、定家にとって後鳥羽院は大恩人であるが、当時は流刑となった罪人であり、公の歌集に収録するには支障があった。為家もまた順徳院に取り立てられた人物であり恩義があった。だから、後で入れ替えが行われたということだ。

 歌聖と称される定家の性格はどうだったのだろうか。自身の日記に若い頃から心神不快・心神違乱としばしば書いていて、病弱だったようである。父親の俊成と同様、咳病があったらしいが、写経や書写により改善しているところをみると神経症だった可能性が高い。ただし、神経質としては弱力性よりも強力性が勝っていたようで、かなり強情な面があり、特に若い頃は、宮中で同僚と言い争ったあげく暴力を振って処罰されたり、時には自分を認めて取り立ててくれて尊敬していた後鳥羽院にも歯向ったりするような面もあったようだ。もっとも、神経質で普段は内向的で小心者であっても、内面には強い生の欲望があって本質は負けず嫌いなので、状況によっては我慢して抑えていたものが溜まって噴出することもあり得る。源平の戦乱の世・平氏政権・鎌倉幕府と世の中が大きく混乱し、公家としては長く不遇の生活を送りながらも和歌の才能を発揮しながら長生きし、最晩年には正二位権中納言にまで出世して当時としては80年の長寿を全うしたあたりは、神経質を生かしたと考えてもよさそうだ。百人一首の中の自身の歌「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」は激しい情熱を秘めた恋の歌であるが、番組の中では、流刑となった後鳥羽上皇の帰還を秘かに待ち焦がれる意味を重ねているという解釈もあることが紹介されていた。

2019年10月20日 (日)

神経質礼賛 1677.ポータブルTV

 夏に体調を崩した義父が我が家に来て3カ月になる。今ではすっかり元気になり、一人で散歩し買物にも行けるようになった。空いていた子供部屋が義父の部屋となり、家からBOSEのCDラジオを持って来て使っているが、部屋にはTVのアンテナ配線がないためTVはどうにもならない。リビングにあるTVを見に来るのは遠慮している様子なので、良い方法はないかと思案する。ポータブルあるいは車載用のワンセグTVではきれいに映らないだろうし、BS番組は見られない。いろいろと探してみると、ワイアレスのポータブルTVがあった。チューナーから電波を飛ばして風呂場や台所など好きな場所に移動してみることができる商品である。アンテナ配線のある部屋にチューナーを置けば義父のいる部屋で見られそうだ。問題は軽量鉄骨住宅の我が家でどれだけ電波が届くかだ。もし使えなかったら無駄な買物になってしまうので迷ったが、Panasonicのプライベート・ビエラという10インチのTVを2万円台半ばで購入した。

 チューナーに地デジ・BS混合のアンテナを繋いでmini-B-CASカードを挿入する。アンテナ線以外は特に別途用意するものがないのはありがたい。TVを近くに置いて電源を入れると、B-CASカードが認識できないというメッセージが出て慌てる。裏返しに入れてしまったかな、と裏返して入れ直しても同じである。説明書を読んでみると逆向きに入れていたことがわかり、解決。カードを入れる方向を矢印で書いてくれてあるといいのに、と思う。後は郵便番号を入力すると簡単に初期設定ができた。2階のリビングにチューナーを設置したところ、1階でも3階でも見ることができる。しめしめ、と思っていたら、そのうち妻がチューナーの存在に気付き、クレームが付く。仕方ないのでチューナーをやはりアンテナ配線のある3階の寝室に移動。一旦電源を切ったが、特に初期設定のやり直しは必要なかった。

 おっと、もう一つやることがあった。NHKの受信契約をするよう促すメッセージを消すことだ。パソコンでNHKのホームページからメッセージ消去のページを出すが、そこから次へどう進んでいいのかわからない。いろいろカーソルを動かしているうちに、キャラクター「どーもくん」の絵が次画面に進める「ENTER」ボタンになっていることにやっと気付いた。長いコード番号を入力した後もやはり「どーもくん」の絵をクリックして登録できた。すぐにわかる人がどれだけいるだろうか。どこかにハッキリ明記してくれなくてはわからなくて困る。独りよがりで神経質が足りない。

2019年10月17日 (木)

神経質礼賛 1676.歩歩是道場(ほほこれどうじょう)

 閑静な修行の場を探していた人が維摩居士(ゆいまこじ)と出会った。「あなたはどこから来たのですか」と維摩居士に問うと「道場から来た」と答えたので、「その道場はどこにあるのですか」と問うと一言「直心(じきしん)是道場」・・・まっすぐ素直な心を持っていれば、どんな所でも道場である。場所は問題ではなく修行の場は自分の心の中にあり、することなすことの一歩一歩が仏法修行なのだ。・・・と答えたという。直心是道場は歩歩是道場とも言われる。維摩居士は商人であり釈迦の在野の弟子ながら、他の出家している釈迦の弟子たちを手厳しくやりこめた人である。

 この話を踏まえてか、大徳寺を開山した禅僧の大燈国師(宗峰妙超)は「坐禅せば四条五条の橋の上 往き来の人を深山木と見る」(448話)と詠んだと伝えられる。しかし、それでもまだ甘いというのが森田正馬先生である。自分を禅師ならぬ形外蝉子とへりくだりながらも皮肉をこめて「折角に坐禅したらば正直に 人は人ぞと見てやればよい」と色紙に書いておられる。人を深山木に見立てるような作為を排してありのままに見よ、ということなのだ。

 歩歩是道場は森田療法にも言える。良い病院・良い医者を求めてあちこち渡り歩くのは時間とお金の無駄になる。何でもない実生活の一コマ一コマが実は修行の場、治療の場であって、誰かが治してくれるのではなく主治医は自分自身なのである。そして、日常生活上の種々の仕事に懸命に取り組んでいるうちに、いつしか「症状」は薄れてゆき、気が付けば神経質は長所に転じているのだ。

2019年10月13日 (日)

神経質礼賛 1675.台風一過

 台風19号が通り過ぎ、今日は早朝から快晴。真夏のような黒富士の宝永火口がくっきり見える。沼津港近くを行きかう船もハッキリと見える。三島では午前のうちに気温32.9℃を記録した。昨夕の強風と大雨が嘘のようである。今回の台風はかつて1200人の死者を出した狩野川台風とコースが似ていて規模もそれに匹敵、あるいはそれ以上と言われていた。残念ながら崖崩れや川の氾濫のために死者や行方不明者や負傷者を出してしまったが、それでも事前の避難勧告や「身の安全を守るため最大限の努力をして下さい。川や海には絶対に近づかないで下さい」といった繰り返しの放送によりいくらかでも被害を減ずることができたかと思う。

 台風襲来の前日11日の段階で、県内の東海道新幹線・在来線とも12日の始発から運休することが公表された。東名・新東名も通行止めだから高速バスや車もアウトである。12日は朝から勤務の上、3泊連続の当直だからどうしても出勤しなくてはならない。そこで、11日当直予定の先生と交代していただき、一旦家に戻って荷物を取ってきて、11日から4泊連続当直ということになった。12日は昼頃からだんだん風雨が強まる。デイケアの利用者さんたちは昼で終了となり、職員も可能な限り早めに帰宅。残っていなければならない職員は風雨が収まるまで院内で待機することとなった。職員の話では近辺のスーパーでは水やカップラーメンさらには乾電池はどこも売り切れだったそうである。停電や断水に備えて皆さんあわてて買いに走ったようだ。台風に限らず地震でも停電や断水が起り得る。地震は台風と違って予測困難だから、水や非常食は普段から買い置きして、時々使って新しいものを補充するようにするに越したことはない。備えあれば憂いなし。心配性、神経質が身を守るのである。

2019年10月12日 (土)

神経質礼賛 1674.サクラレビュー

 ネット通販を利用している人が多くなった。商品を購入する際に参考にするのが、すでに購入した人のコメントやレビューである。評価点数の平均点が高く、コメントやレビューが多いと安心感がある。ところが、「サクラ」が売主側に都合の良いコメントやレビューを書いていることもあり、そうした書き込みをする主婦や学生のアルバイトもある、ということがニュース番組で報じられていた。そうなると、それを信じて買った人が粗悪品をつかまされる恐れがある。レビューがサクラではないかを判別して「サクラ存在率は○%です」と表示する「サクラチェッカー」というWebサービスが話題になっているという。

 もっとも、コメントやレビューをよく観察すれば、サクラではないかと見抜ける場合が多いように思う。まず、評価点の平均は高いが、★5つ評価が多数ある反面★1つ評価も多いというものは怪しい。評判の悪さをサクラが大量の★5つ評価を流して平均スコアを上げるとともに★1つコメントやレビューを見えにくくしている可能性がある。それから、どこがどのように良いのか具体性のない★5つ評価、投稿者名が不自然である場合、同じような時期に類似の評価が続けて投稿されている、といった場合は要注意である。神経質の皆様方はやっておられると思うが、怪しいと思ったら★1つ評価をよく読んでみるとよい。電化製品だと、初期不良や業者の対応の悪さや使い勝手の悪さが書き込まれていることが多い。「安物買いの銭失い」にならないよう、サクラコメント・レビューにはくれぐれも御用心である。

2019年10月10日 (木)

神経質礼賛 1673.貧乏ゆすり

 仕事帰りの電車に乗って席に座っていて、ふと見ると通路を隔てて斜め前の席に座っている男性が激しく貧乏ゆすりをしているのに気が付いた。50代位で学校の先生風である。そのうちカバンからノートを取り出して読み始めると貧乏ゆすりはピタリと止まった。しばらくしてノートをしまうとまた激しい貧乏ゆすりが始まった。電車の中で貧乏ゆすりをしている人はめったに見ない。数年前、隣の席に座ってきた大柄の白人男性が貧乏ゆすりをしてその振動に閉口したことがある。若い頃、大学受験で後ろの席に座った人が試験中に貧乏ゆすりをして、神経質な私は試験に集中できずに困った経験があったことも思い出す。

 貧乏ゆすりをする人がどの程度いるのか、その頻度は不明である。不思議と女性の貧乏ゆすりを見たことはないので、性差もあるのかもしれない。女性だと親から「お行儀が悪い」と注意されやすいために少ないことが考えらえる。その名の由来は、貧乏人が寒さに震える様子、落ち着きなく動いている様子からとも言われるが、よくわかっていない。さらには原因もよくわからない。本人には意識がなく、一種の癖と考えられるが、不安解消のため、過剰なカロリーを消費するためという説がある。最近では、下肢の血行を良くして血栓の予防になるという効果がよく言われる。エコノミークラス症候群予防のためには貧乏ゆすり、ということになるだろうか。しかし、周囲の人に不快な思いをさせるのはいけないので、人がいないところで意識してやった方がよいだろう。

2019年10月 6日 (日)

神経質礼賛 1672.森田療法100周年

 今年は森田療法が創始されてちょうど100年になる。10月5日・6日と浜松で行われた第37回森田療法学会も「新時代の森田療法、来るべきもの」というテーマでそれを意識した内容になっていた。今回会長を務められた山末英典・浜松医大教授は、森田療法の効果検証をしようとしておられ、特別講演にはすでにスマホを用いて認知行動療法の効果を検証した古川壽亮・京大教授をお呼びしていた。その後のシンポジウムⅠではこれまでの森田療法の流れや最近の外来森田療法の実際が中村敬先生と伊藤克人先生によってわかりやすく論じられた。一方、森田療法と仏教との関わりを岡本重慶先生が論じられ、とても興味深かった。岡本重慶先生は御著書で現代の森田療法から忘れ去られた部分を追及されている。客席の最前席に座っておられた御齢92歳の元三聖病院院長・宇佐晋一先生も発言され、現代の森田療法で得られたものもあるが失われたものもあるのではないかという趣旨のことを言っておられた。私が思うに森田療法の科学性を強く主張していくうちに仏教と重なる面は削ぎ落とされてしまったのではないだろうか。森田療法のユニークな「不問技法」も今ではすっかり影を潜めている。外来森田療法を積極的に行っておられる先生からは、治療の舞台が入院から外来に変化しているので、いきなり「不問」ではなく、まず問うことから始めなくてはならない、という指摘があった。それはその通りであるが、言葉や観念の世界に終始し実際の行動に結びつかなければ、一体どこが森田療法なのか、ということにもなってくる。

 適応疾患の拡大に伴い、いかにその人の「生の欲望」を引き出して行動に転じていかせるか、ということが治療の中心に置かれるようになってきている。不安は「生の欲望」の裏返しであり、それを振り払おうとすればかえって不安を増大させる「精神交互作用」によって症状が固着してしまう。そこで不安はどうしようもないものとして不安なままやるべき行動を取っていく、という戦略は神経質者でなくても通用する。しかしながら、鈴木知準先生の打ち込み的助言に代表されるような神経質者に鋭く切り込んでいく部分は失われていった。「先生が恐ろしいのは、勉強が苦しいように、当然の事であって、もし、それが友人や路傍の人のようであっては、ここへ入院しても、なんの効もないのである(森田正馬全集第5巻 p.409)」というような治療者はいなくなった。そして神経質の良さを生かしていこうという森田正馬先生の「神経質礼賛」の精神も今はない。私の師の大原健士郎先生は森田療法の患者さんたちに「神経質で悪いことは一つもないんだよ」「神経質は出世の性格だ」と常に言っておられたものだ。そして、私に対して森田療法について語られたことは以前記したようにたった一言、「お前が患者のお手本になるように行動していくんだよ」だった。それは一生かかっても実現できない目標ではあるが、せめて神経質礼賛の旗印を掲げ続けたい。

2019年10月 3日 (木)

神経質礼賛 1671.名前の確認

 今月になって、今まで主に担当していた病棟から離れて、他の病棟の全患者さんの主治医になった。長年、御家族と面談していろいろと相談に乗っていたケースもあって、何の挨拶もなく途切れてしまったのが気になるが、こういうやり方がスタンダードだ、と言われてしまうと何とも仕方がない。新しく担当なった大部分の患者さんとは一度も話をしたことがなく、顔を見てもお名前がわからない。一昨日、最初の診察の際、次々と診察室に入ってくる方の名前がわからず、「すみません。お名前を教えて下さい」を繰り返す。この人は確か○○さんだったよなあと思い、「○○さんですね」と聞いたら、「違います。△△です」と答えた人がいた。△△という入院患者さんはいない。変だなあ、間違いないはずだが・・・実はこの人は芸能人の△△の家族であるという妄想があるのだった。私は元来、人の名前を覚えるのが苦手であり、加齢により記憶力が落ちてきているので、名前の確認は当分続くことになりそうだ。そして、これまでの経過を知るために電子カルテとにらめっこする日々が続くだろう。

 患者さんの取り違えによる医療事故は後を絶たない。他の患者さんに手術をしてしまったというような信じられないミスもたまに起こる。最近では電子カルテが普及して、別の患者さんに記載してオーダー入力してしまうようなミスも問題になっている。特に患者数の多い大病院では同姓同名や似た名前の患者さんの取り違えが起きやすい。私自身が通院している市立病院内科では診察やCT・レントゲン撮影の際に必ず「お名前をフルネームで言って下さい」と言われる。以前入院したことがある県立総合病院では一日に何度も看護師さんから「名前と生年月日を言って下さい」と言われて少々うんざりしたが、事故防止のためにはこうした確認は欠かせない。多分、大丈夫だろう、と油断していると事故が起きやすい。この点に関しては少々強迫的であった方が良い。

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