神経質礼賛 1676.歩歩是道場(ほほこれどうじょう)
閑静な修行の場を探していた人が維摩居士(ゆいまこじ)と出会った。「あなたはどこから来たのですか」と維摩居士に問うと「道場から来た」と答えたので、「その道場はどこにあるのですか」と問うと一言「直心(じきしん)是道場」・・・まっすぐ素直な心を持っていれば、どんな所でも道場である。場所は問題ではなく修行の場は自分の心の中にあり、することなすことの一歩一歩が仏法修行なのだ。・・・と答えたという。直心是道場は歩歩是道場とも言われる。維摩居士は商人であり釈迦の在野の弟子ながら、他の出家している釈迦の弟子たちを手厳しくやりこめた人である。
この話を踏まえてか、大徳寺を開山した禅僧の大燈国師(宗峰妙超)は「坐禅せば四条五条の橋の上 往き来の人を深山木と見る」(448話)と詠んだと伝えられる。しかし、それでもまだ甘いというのが森田正馬先生である。自分を禅師ならぬ形外蝉子とへりくだりながらも皮肉をこめて「折角に坐禅したらば正直に 人は人ぞと見てやればよい」と色紙に書いておられる。人を深山木に見立てるような作為を排してありのままに見よ、ということなのだ。
歩歩是道場は森田療法にも言える。良い病院・良い医者を求めてあちこち渡り歩くのは時間とお金の無駄になる。何でもない実生活の一コマ一コマが実は修行の場、治療の場であって、誰かが治してくれるのではなく主治医は自分自身なのである。そして、日常生活上の種々の仕事に懸命に取り組んでいるうちに、いつしか「症状」は薄れてゆき、気が付けば神経質は長所に転じているのだ。
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