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2019年10月 6日 (日)

神経質礼賛 1672.森田療法100周年

 今年は森田療法が創始されてちょうど100年になる。10月5日・6日と浜松で行われた第37回森田療法学会も「新時代の森田療法、来るべきもの」というテーマでそれを意識した内容になっていた。今回会長を務められた山末英典・浜松医大教授は、森田療法の効果検証をしようとしておられ、特別講演にはすでにスマホを用いて認知行動療法の効果を検証した古川壽亮・京大教授をお呼びしていた。その後のシンポジウムⅠではこれまでの森田療法の流れや最近の外来森田療法の実際が中村敬先生と伊藤克人先生によってわかりやすく論じられた。一方、森田療法と仏教との関わりを岡本重慶先生が論じられ、とても興味深かった。岡本重慶先生は御著書で現代の森田療法から忘れ去られた部分を追及されている。客席の最前席に座っておられた御齢92歳の元三聖病院院長・宇佐晋一先生も発言され、現代の森田療法で得られたものもあるが失われたものもあるのではないかという趣旨のことを言っておられた。私が思うに森田療法の科学性を強く主張していくうちに仏教と重なる面は削ぎ落とされてしまったのではないだろうか。森田療法のユニークな「不問技法」も今ではすっかり影を潜めている。外来森田療法を積極的に行っておられる先生からは、治療の舞台が入院から外来に変化しているので、いきなり「不問」ではなく、まず問うことから始めなくてはならない、という指摘があった。それはその通りであるが、言葉や観念の世界に終始し実際の行動に結びつかなければ、一体どこが森田療法なのか、ということにもなってくる。

 適応疾患の拡大に伴い、いかにその人の「生の欲望」を引き出して行動に転じていかせるか、ということが治療の中心に置かれるようになってきている。不安は「生の欲望」の裏返しであり、それを振り払おうとすればかえって不安を増大させる「精神交互作用」によって症状が固着してしまう。そこで不安はどうしようもないものとして不安なままやるべき行動を取っていく、という戦略は神経質者でなくても通用する。しかしながら、鈴木知準先生の打ち込み的助言に代表されるような神経質者に鋭く切り込んでいく部分は失われていった。「先生が恐ろしいのは、勉強が苦しいように、当然の事であって、もし、それが友人や路傍の人のようであっては、ここへ入院しても、なんの効もないのである(森田正馬全集第5巻 p.409)」というような治療者はいなくなった。そして神経質の良さを生かしていこうという森田正馬先生の「神経質礼賛」の精神も今はない。私の師の大原健士郎先生は森田療法の患者さんたちに「神経質で悪いことは一つもないんだよ」「神経質は出世の性格だ」と常に言っておられたものだ。そして、私に対して森田療法について語られたことは以前記したようにたった一言、「お前が患者のお手本になるように行動していくんだよ」だった。それは一生かかっても実現できない目標ではあるが、せめて神経質礼賛の旗印を掲げ続けたい。

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コメント

森田療法100周年ですか。

森田療法と鈴木知準先生に出会ってから振り返ってみますと、40年。そこには森田療法とはなんぞや、と自分に言い聞かせ、納得する事は無かったように思います。鈴木知準先生がされる通り、不問。打ち込み。恐怖突入。今を生きる。これはまるで禅的生き方です。「今を生きる」「正法眼蔵 生死=法の方に投げ入れて法の方より行われる」「放下着=執着をすてる」これらはまるで曹洞禅です。なにも医学博士から指導を受ける事は無かった訳です。生きている事自体が禅。鈴木知準先生の基本は医学的な根拠に基づいて多分に禅的生き方を取り入れておられたと思われます。ならば、自由診療で高い入院費用を支払って中野へ入院するより、禅寺へ行ったも同然だったのではないか、とさえ思います。方法論は別として。
勿論、入院費用に糸目をつけず長く鈴木知準先生にくらいついて「快癒」を得た人も居ると思いますが、多くは追体験を繰り返し、徐々に軽快に、もしくは別療法へ移っていったと思われます。

禅は神経質人にはドンピシャの快癒への指針であると思います。それを知らしめるには禅の、問答無用の打ち込み。それしかありません。しかし、神経症最中に在る者にとって、打ち込みは全く解らないのです。オロオロして費用足らずに退院・卒業するしかなかったと思います。私もその一人でした。

そして、親身に話を聞いて下さる医師を必要としたのです。私の場合その医師の下、20年を掛けて軽快になってきました。

今、週に一度、曹洞禅に通っていますが、ここに来て疑問を抱き始めました。鈴木知準先生言われるように、生き方そのものが禅なのです。坐禅堂で坐禅する事はただ、その空間と時間を坐禅堂を借りているだけに過ぎないのです。あくまでも瞬間瞬間生きる事=禅なのです。生きる事自体が修行なのです。
ぼやぼや寝ている場合ではない。鈴木知準先生の言われた言葉です。仏法でも説法でもない。「今を生きる」禅が鈴木知準先生の治療だったのではないでしょうか。

神経を病む人が多い今の時代。果たして鈴木的禅的指針と治療法が患者にそぐうかどうか疑問です。ある程度の穏やかなカウンセリングが必要でその後、患者さんの症状によって鈴木知準先生言われる禅的指針が生きてくるように思われて仕方が無いのです。

私にとっての森田療法は鈴木知準先生の治療方法でした。

 モーツァルト・クラリネット協奏曲2楽章を聴きながら...

追.
私も、神経質人は「悟り」に一番近いところにいる立場と思います。そこに到達するには個人差があるのですが、へたな坊様よりより悟りに、生きる達人に近い位置に在ると思っています。それは年齢ではありません。10代であろうと90才代であろうと関係がありません。神経質人は達人の切符を手に握っているのです。そう私は思っています。とはいえ、私は死に直面してもなおあがくかもしれません。わかり得ないというのはそういう事ですね。折角の切符。無駄にはしたくはありません。しかし、これも生き方次第と思います。

yukimiya様

 コメントいただきありがとうございます。

 「生き方そのものが禅」、体験に基づかれた深い言葉だと思います。座禅や瞑想よりも作務の方が森田療法と重なる部分がより大きいかと思います。理屈や観念よりも実生活を重視するのが森田療法ではないでしょうか。おしゃべりしている暇があったら、あれこれ考えている暇があったら、少しでも仕事を探して行動した方がその人自身や周囲の人にとって価値があります。
 「神経質は達人の切符を手に握っている」、よくぞ言って下さいました!そのプラチナチケットを生かすも殺すも本人次第であります。そしてそれを最大限生かす知恵が森田に他なりません。

yukimiya様
 
 書き忘れました(笑)。モーツァルトのクラリネット協奏曲、クラリネット五重奏曲とも秋にはピッタリの曲ですね。心が和みます。

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