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2019年10月24日 (木)

神経質礼賛 1678.藤原定家は神経質か

 今週のBS-TBSの歴史鑑定は、「百人一首藤原定家からの挑戦状」というテーマで興味深かった。百人一首には番号が付いていて、1番・天智天皇、2番・持統天皇の親子から始まり、99番・後鳥羽院、100番・順徳院の親子に終わることは御存知かと思う。大化の改新で天皇中心の国家を作り上げた天智天皇、天智の弟・天武天皇の妻となり自らも天皇となった持統天皇は後の奈良時代・平安時代の政治文化の基礎を作った存在である。そして、定家の時代に後鳥羽院・順徳院は承久の変を起こして鎌倉幕府に敗れて流刑となり、天皇・貴族の政治文化の終焉を決定づけた。後鳥羽院の「人も惜し 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は」の歌は恨み節に聞こえるし、順徳院の「ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり」は懐古の歌と思える。いわば約600年にわたる天皇・貴族文化の歴史を象徴するような和歌を集めたとも言える。百人一首は元々、藤原定家(1162-1241)の嫡男・為家の妻の父親で定家とも親交のあった蓮生(れんしょう:宇都宮頼綱)から山荘の襖に貼る色紙を依頼されたものである。この宇都宮家は鎌倉幕府の有力御家人だったが、謀反の疑いをかけられて一族全員出家したといういきさつがある。それゆえ、蓮生は不遇のうちに亡くなっていった歴史上の人物の鎮魂をしようという意図で定家に依頼したのだという。そして、当初に定家が撰んだ「百人秀歌」には後鳥羽院・順徳院は含まれていなかった。嫡男の為家が後に手を加えたと考えられる。そもそも後鳥羽院・順徳院という呼称は定家の死後のことである。定家は後鳥羽院に和歌の能力を高く評価されて出世を後押しされているので、定家にとって後鳥羽院は大恩人であるが、当時は流刑となった罪人であり、公の歌集に収録するには支障があった。為家もまた順徳院に取り立てられた人物であり恩義があった。だから、後で入れ替えが行われたということだ。

 歌聖と称される定家の性格はどうだったのだろうか。自身の日記に若い頃から心神不快・心神違乱としばしば書いていて、病弱だったようである。父親の俊成と同様、咳病があったらしいが、写経や書写により改善しているところをみると神経症だった可能性が高い。ただし、神経質としては弱力性よりも強力性が勝っていたようで、かなり強情な面があり、特に若い頃は、宮中で同僚と言い争ったあげく暴力を振って処罰されたり、時には自分を認めて取り立ててくれて尊敬していた後鳥羽院にも歯向ったりするような面もあったようだ。もっとも、神経質で普段は内向的で小心者であっても、内面には強い生の欲望があって本質は負けず嫌いなので、状況によっては我慢して抑えていたものが溜まって噴出することもあり得る。源平の戦乱の世・平氏政権・鎌倉幕府と世の中が大きく混乱し、公家としては長く不遇の生活を送りながらも和歌の才能を発揮しながら長生きし、最晩年には正二位権中納言にまで出世して当時としては80年の長寿を全うしたあたりは、神経質を生かしたと考えてもよさそうだ。百人一首の中の自身の歌「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」は激しい情熱を秘めた恋の歌であるが、番組の中では、流刑となった後鳥羽上皇の帰還を秘かに待ち焦がれる意味を重ねているという解釈もあることが紹介されていた。

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