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2019年11月28日 (木)

神経質礼賛 1690.レンコン

 今週の当直の夕食は鶏みそ照焼きとレンコンの梅おかか和え。翌日の昼食も鶏マスタード焼とレンコン金平だった。レンコン続きということは、もしかして今が旬なのかなあ、と思う。神経質ゆえ知りたくなる。調べてみると、レンコンの収穫期は主に今時分の晩秋から冬にかけてということであり、やはり旬の根菜である。レンコンが蓮(806話)の根の部分であることは御承知かと思う。「先を見通す」というところから正月のおせち料理には欠かせない存在となっている。

 レンコンの栄養分を見ると、意外にもビタミンCが多い。そして、デンプン質に守られて熱には比較的強いらしい。ミネラル分のカリウム、カルシウムの他、鉄、亜鉛、銅も含んでいる。ビタミンB12も多く含まれるので貧血に良さそうである。古くから、血行改善、体内に滞った熱を冷ます薬効が言われていて、風邪にも良いとされている。レンコンのおろし汁にハチミツを加えて飲むと、咳止めになるそうである。やはり季節の野菜は、その時期の健康保持に役立つものなのだ。スーパーの野菜売り場で見ると、小さな塊が200-300円で売られていて、それなりに値段がするものである。私は小さいころからレンコンはあまり好きではなかったけれども、生薬としての効能があるとすれば、積極的に食べてみようかとも思う。

2019年11月24日 (日)

神経質礼賛 1689.癒しの第二楽章

 医療関連サイトを見ていたら、精神科医の自殺リスクは普通の人の5倍、という記事があって、思わず読んでしまった。リスクが高い原因として、受け持ち患者さんの自殺で自分を責めて追い詰めてしまうとか、そもそも精神的に問題のある人が精神科を選びやすい、といったことが挙げられていた。残念ながら担当している患者さんの自殺は1-2年に1回位の割合で起こり、ある日突然に警察から病状照会の電話がある。やはり、何がいけなかったのだろうか、何とか防止できなかったのだろうか、と自分を責めることになる。神経質ゆえ、反省の意味をこめて、自殺既遂者について要約を記録している。これほど強いダメージは受けないにせよ、普段からうつの人の話を聞き続けているとこちらにも、うつが伝染(うつ)るということもある。

 もちろん、気分はあるがままに(そのままにして)、やるべきことをやる、という森田療法的な対応はしているが、それ以外に自己修復に役立つのが音楽である。音楽療法の基本にアルトシューラーという精神科医が提唱した「同質の原理」ということがある。まずは、その時の気分に合わせたテンポや曲調の音楽を選ぶのが良い。落ち込んでいる時に元気を出そうとしてテンポの速い行進曲のような曲をいきなり聞くのは好ましくない。まずは短調のゆったりした曲を聞いてから、だんだんとテンポの速い明るい曲に移っていくのがよい。私の場合は休日に30分ほど楽器を弾いている。伴奏音源は自分で作成したものだ。特に心が落ち着くのがバッハの協奏曲の第2楽章である。チェンバロ協奏曲からヴァイオリン協奏曲として復元されたBWV1056Rの第2楽章はかつてスキャットで大ヒットした曲で非常に美しい。同様にオーボエとヴァイオリンのための協奏曲として復元されたBWV1060Rの第2楽章も天国的な美しさである。ヴァイオリンの教本に必ず載っている二つのヴァイオリンのための協奏曲BWV1043の第2楽章も弾いていて心地よい。フルートとヴァイオリンが絡むブランデンブルグ協奏曲第5番BWV1050の第2楽章もいい。短気で怒りっぽいバッハが自己治療のために作り上げたのではないかと勝手に想像してしまう。

 昨日はヴァイオリンとヴィオラ(と酒)を持って旧友の家に遊びに行った。年に1-2回、彼のピアノに合わせて楽器を弾き、終わってから飲むのだが、今回はもう一人彼の音楽仲間が来ていて、3人でバッハの二つのヴァイオリンのための協奏曲の第1楽章を弾いた。その人はまだ第1楽章しか弾けないということで、第2楽章は次回のお楽しみということになった。その先はモーツァルトのヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲K.364も弾こうということになっていてこれからが楽しみだ。

2019年11月21日 (木)

神経質礼賛 1688.キャッシュレスの落とし穴

 11月15日(金)付毎日新聞朝刊第2面に「デジタル遺品 混乱の種」と題する記事があった。亡くなった人が使っていたパソコンのパスワードがわからないため、写真などのデジタル遺品が取り出せないという問題が起きる。こういうブログの類も無管理で放置されて荒れ果てる。特にデジタル資産とでも言える、ネット銀行口座やらネット証券の株やら仮想通貨がそのまま埋もれてしまって、遺産が目減りしてしまうのは大問題である。亡くならないまでも認知症になったり重大な障害を負ったりした時には自分では利用できなくなって、そこで埋もれてしまう可能性も十分にある。パスワードを解除するにはデータ修復業者に依頼するのが一番だというが、かなりの金額と時間を要するらしい。そういう状況になってしまわないように、普段からデジタル資産のパスワード等をまとめて紙に記録しておくことを記事では勧めている。しかし、ネット銀行では安全のために頻回にパスワードを変更することを勧めるから記録は大変だし、もし、紙に書いたパスワードなどが盗まれたら大きな被害をこうむることになる。

 消費税アップに伴い消費低下を恐れた政府が電子マネー(1393話)などのキャッシュレスの買物にポイントを付けることにしてから、中高年の間にもキャッシュレスが急速に広がっているという。消費税率を上げておきながらこんなことに税金を使っているのだからおかしな話である。以前にも書いたが通貨の信頼度の高い日本とドイツでは現金決済率が高い。キャッシュレス率が極めて高いのは隣のK国である。何もその猿真似をしなくたっていいだろう、と言いたくなる。

 私はそのポイント優遇の電子マネーは使っていない。地元のバス・電車の交通カードで系列スーパーの買物をする程度である。クレジットカードもあまり好きではないが、定期券を買う時や店頭でどうしても買えない物をネット通販で買う時には使う。自宅の新聞代金や母の家の公共料金もカード払いにしてしまっている。かつては年末か年初に現金出納帳と現預金を照合チェックしていたが、クレジット払いやらプリペイドが増えてくると煩瑣になってここ数年はサボっている。キャッシュレスのいけないところは自分の所持金額を「見えない化」してしまうところにある。クレジットカードや電子マネーは「打ち出の小槌」ではない。神経質人間としては、気が大きくなって無駄遣いしないように、そして消える財産とならないよう、気を付けたい。

2019年11月17日 (日)

神経質礼賛 1687.石焼き芋

 昨日は、私が担当している病棟のレクリエーションとして焼き芋会が病院中庭行われた。準備や片付けには森田療法の患者さんたちも手伝ってくれた。濡らした新聞紙で芋を巻き、その上からアルミホイルを巻く。芋が焼けるのを待っている間、手押し相撲のレクリエーションが行われる。二人が向き合って行司の掛け声に合わせて手のひらで押し合い、足が動いてしまった方が負けになる。小学校でも行われる簡単なゲームだけれども、案外、面白いものだ。もちろん、患者さんが倒れてケガをしないように、すぐ後ろには職員が控えて安全面には気を配っている。手押し相撲には職員も参加して大げさな動作で笑いを集める。焼き芋ができると順次配られる。高齢の方など、喉に詰まらせるおそれのある人には小さく割って、職員が様子を観察しながら少しずつ食べてもらう。焼きたての芋はホクホク甘くておいしかったようで大好評だった。

  石焼き芋が蒸した芋に比べて甘いのはどうしてだろうか。焼き芋に適した「紅あずま「」「鳴門金時」「べにはるか」「安納芋」などの銘柄芋を使うということもあるかもしれないが、加熱の仕方で違いが出るらしい。熱せられた石が発する遠赤外線により、芋表面は高温になって水分は飛ばされるが、内部は水分を保ったままゆっくり温度が上がる。そしてデンプン分解酵素がデンプンを麦芽糖に変え、甘さが出るのだそうだ。

 患者さんたちがおいしそうに食べているのを見ると、自分も食べたくなってしまう。最近は軽トラックで売りに来る石焼き芋屋を見かけなくなった。焼芋は俳句の世界では冬の季語になっている。季節の風物詩が減っていくのは寂しい。私の出身高校近くに「大やきいも」という名の100年続く店がある。焼き芋・大学芋・静岡おでんがメインの店だ。もう少し寒くなったら買いに行ってみよう。

2019年11月14日 (木)

神経質礼賛 1686.其前を謀らず、其後ろを慮(おもんぱか)らず

 私たち神経質人間は過去の失敗を思い返して、ああしていればよかったのにとか、こうしておけば今頃は違った結果になっていたのになどと悔しがる。そして、先のことをクヨクヨ考えて、もうダメになってしまうのではないか、悪い事ばかりが待ち受けているなどと取越苦労する。過去のことをあれこれ考えても、もはやどうにもならないし、未来のことは自分がベストだと思った行動を取ったならば、後はなるようになるしかないのであるから、これまたいくら考えても仕方がない。そこで、森田療法では「現在になりきる」「今を生きる」ことを説いている。森田正馬先生は、現在になりきるということは、前を謀らず、後ろを慮らず、ということだ、と言っておられる。

 いわゆる「現在になりきる」とか、達磨大師の仏性論で「故に至人は、其前を謀らず、其後ろを慮らず」という言葉について、私が最近に体験した事をお話しします。この「現在になりきる」ことによって神経質は治るのである。
(筑波山のケーブルカーの駅から妻ともう一人の同行者が頂上に登っていき、森田先生はそこで待つことにしたが、一歩一歩歩いているうちに頂上に着いてしまったという話、さらに家族旅行で富士登山をした時に体調不良で一人引き返した話をされて)
 霧雨は降る。息は苦しい。山を降りるかと思えば、なかなか登る事が多い。ついにすべての想像・予想を絶って、この後、幾万歩あるか、永久に歩く心構えで、足元ばかりを見て、歩数を数えて行った。何千歩であったか忘れたけれども、ふと窟室のところへ到着した。それが目的の(富士山)五合目の宿であった。この時にはなんの苦痛をも既に忘れていた。ただ永久に、足にまかせて歩くという気合があるのみであった。
 これが私の「現在になった」という事の体験である。その時には、自分が病気であるから、どんな大変が起こるかも知れぬとか、「其前を謀る」という既往の持前の事を苦にやみ、嘆くというような繰り言・世迷い言がなく、また「後に慮る」といって、頂上に登れないのが残念だとか、この病気が大変になるのではないか、とかいうような取越苦労や予期恐怖とかいうものはない。ただその現在になりきっているという心境である。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.139-140)

 しかしながら、「前を謀る」ことも「後を慮る」こともまるきり悪いことではない。ある程度は必要である。徳川家康の「しかみ像」(209話)のように、過去を反省して同じ失敗を繰り返さないよう気を引き締めることや、これから起こるかもしれない不慮の出来事を心配し、それに備えて貯金をしたり安全面に投資したり保険をかけたりしてリスクを軽減するのは、神経質の特技であり美点でもある。ただし、あまりにも前を謀り過ぎ後ろを慮り過ぎて頭の中を空転させ、行動が止まってしまうようではいけないから、前を謀らず、後を慮らず、という指導になってくるのである。

2019年11月10日 (日)

神経質礼賛 1685.音読

 社会人になってから音読することはほとんど皆無である。思えば、小学校の頃は国語の授業中に指名されて教科書を読まされることがあって、これはとても苦手だった。うまくできないと笑われたり冷やかされたりする。それを恐れるとますます緊張して声が震えたり途中で引っかかったり一行飛ばして読んだりしてしまう。終わってしまえばどうということもないのだが、当てられたらどうしよう、とひどく恐れていたものだ。音読恐怖と言ってもよい。中学、高校、大学では、英語の授業の音読がある。発音のわからない単語をあらかじめ調べておかなくてはならないし、さらに読んだ部分の日本語訳も要求されるから、予習をしておかないと恥をかくことになっていた。ただ、中学高校で、平家物語の最初の部分や百人一首を暗記して声に出す、ということは緊張しながらも心地よさも感じていたものである。

 入院の森田療法では週1回集団精神療法がある。その中で、前任の先生から引き継いだ『自覚と悟りへの道』(白揚社)の輪読を行っている。これは、形外会の記録を水谷啓二さんが編集されたダイジェスト版である。患者さんだけでなく参加している医師や看護スタッフも順番に音読していくのである。形外会の全記録を収録した森田正馬全集第5巻は何度も読み直しているけれども、音読してみると意外と読み飛ばしている箇所に気付いたり、ここはどういう意味だろうかと考えさせられる部分も出てきて、とてもためになる。そして、何よりも音読した後には一種の爽快感が得られるのである。

 音読の効果はいろいろと言われている。脳の前頭前野を活性化するというような話もあるようだ。ただし、こうした輪読会ではなく一人で音読する時には、周囲への配慮が必要なのは言うまでもない。

2019年11月 7日 (木)

神経質礼賛 1684.親の介護問題

 早い人で40代、遅い人でも60代になってくると必ず直面するのが親の介護問題である。最近では介護のために仕事を辞める介護離職が大きな問題となっている。介護を優先するため仕事を辞めてしまうと収入は大幅ダウンして困窮にあえぐことになりやすい。また、介護が一段落して再就職することになっても、退職した時より年齢が上がっているから、思うような仕事に就くことはむずかしくなってしまう。

 特に、うつ病・うつ状態で長く外来に通院している人には、介護が大きくのしかかっていることが少なくない。結婚せず親と同居しているうちに親が弱ってきて一人で親の世話をしなくてはならなくなった、というケースも目立つ。「デイサービスへ行くのを嫌がるから家でみなくてはいけない」「仕事中も些細なことで親から電話がかかってくる」「夜、親がトイレに行く時は起きて付いて行くけれど、自分が眠れなくて昼夜逆転になってしまっている」といった話を聞く。こうなると、一種の共依存関係と言ってもいいかもしれない。がんばって自分のやりたいことを我慢して親のためだと思って世話をすることに生きがいを感じる。そのこと自体、悪いことではないが、度を過ぎた自己犠牲・過剰な援助は疲弊やうつの悪化を招くだけでなく、親のためにもよろしくない。さらに、家を出ている兄弟姉妹がいる場合、兄弟姉妹間の軋轢が生じやすい。本人からすれば家を出て行った人たちは自分に全てを押しつけている・自分はこんなに頑張っているのに理解されていないという思いが出やすいし、兄弟姉妹からすれば本人が自分一人で介護している苦労を過度にアピールしているようにも見えやすい。案外、離れて住んでいる兄弟姉妹の方が客観的に見ている部分もあるものだ。

 介護は長丁場である。やみくもに突っ走ったら続かない。適度な休みや遊びも必要である。「がんばりすぎない」(706話)ことが大切だと思う。

2019年11月 4日 (月)

神経質礼賛 1683.振替休日

 今日は文化の日の振替休日である。とは言っても、私は今年度の月曜日は祝日・振替休日もすべて出勤し当直もすることになっているので、平日同然である。違いは外来が休みというところだけだ。成人の日や敬老の日や体育の日のように月曜指定の祝日が増えたし、日曜日が祝日のため月曜日が振替休日になることもある。その結果、月曜日に受診している患者さんは、思うように受診できず、うっかり薬を切らして困ることもあるし、祝日だった翌週は込み合って大変なことになる。月曜休みが多いのは医療側にとってもありがたくない。以前にも書いたように(1558話)、日本の祝日は先進国では最多クラスだ。それに外国には振替休日がない国だってある。それでも日本人は働きすぎだという。有給休暇や育児休暇は「絵に描いた餅」になっている。そもそも、第〇月曜日というような祝日は存在意義が怪しい。もっと祝日を整理して、その分、各自が有給休暇を取りやすいシステムにしたらどうかと思う。

 今日の午前中は病棟の仕事が詰まっていた。午後になって空いた時に、外来待合室に面した白砂の庭を見ると、枯葉がたまり、細かい雑草が生えて見苦しいと感じた。そこで、しばらくぶりに枯葉拾いと草取りである。大きな雑草はないが、カイワレ大根の五分の一位の大きさのスプラウト状の草がびっしり生えている。しゃがんで丁寧に取っていく。夢中になってやっていたら、「先生が草むしりをするんですか?!」と声を掛けられる。振り向くと、うつ病で入院している患者さんに面会に来たその奥さんだった。義務感からではなく、気が付いたら行動していくのが森田式である。

2019年11月 3日 (日)

神経質礼賛 1682.災害用非常食

 我が家では、地震などの災害時に備えて水とともにレトルト食品や缶詰の非常食を用意している。神経質な私が賞味期限を時々チェックしていて、古いものは食べて新しいものを買って補充している。病院でも災害時用に御飯やレトルト総菜などを患者さんと職員の分を合わせて250人分備蓄している。毎年、炊き出し訓練をして古い御飯は職員食として供される。レトルト総菜は賞味期限が迫ってくると1個10円などの価格で職員の希望者に販売されている。今回は賞味期限を少し過ぎてしまった長期保存用レトルト二種類が希望者に配布されたので(食べるのはあくまでも自己責任ということで)、私もいただいた。少し期限が過ぎただけで廃棄するのはもったいない。

 一つはアルファフーズの「美味しい防災食 肉じゃが」である。5年間保存できるもので、1個130g、166kcal、塩分1.5gである。レトルトゆえ、じゃがいもはあまり大きくはできないが、普通のレトルトカレーに比べれば大きめである。牛肉は粉々になってしまっているけれど、それらしい味がして悪くない。巻いた糸こんにゃくが一つ入っているのもいい。病院の場合、高齢や病気のために嚥下が悪くて軟菜食、キザミ食の人もいるから、そうした人も食べることを考えるとこの位が無難なところである。災害時、アルファ米の白飯に梅干だけでは寂しい。こういうものが付けば食事を摂ったという実感が得られるだろう。心細い被災時こそ、おいしいもので元気を補充したいものだ。

 もう一つはKAGOMEの「野菜たっぷり かぼちゃスープ」である。1個160g、81kcal、塩分0.9g。かぼちゃ、人参、豆類が豊富に入っている。カップに入れると7-8分目の量だ。電子レンジで1分半ほど温めるとおいしく食べられた。具材は小さく柔らかいので高齢者でも安心である。避難時はただでさえ動きが少なくなるところにもってきて、援助物資のおにぎりや菓子パンばかり食べていると便秘になりやすい。野菜不足の時には貴重な存在になるだろう。自宅にある保存食は野菜系が少ない。こうした物も買ってみようかと思う。

2019年11月 2日 (土)

神経質礼賛 1681.主観的事実と客観的事実(2)

 神経質に悩む人にとっては、とにかくこの辛い症状がなくなって欲しい、これさえなければいいのに、と思うことだろう。しかし、森田療法でいうところの治った、というのは、症状が消えてしまうことを意味しない。症状があるとかないとかを問題にせず、日常生活でやるべきことができるようになれば、それが「治った」なのである。森田先生は次のように言っておられる。

 たいていの人は、主観的に気持の上でよくなるよりは、客観的に事実においてよくなる。本人が気付くのは、ずっと遅い。

(某氏:それでは、自分で治ったと思うのはどうですか。)

 ここでは一切、自分の気分や想像で、「よくなった」とか、「わかった」とかいう事は問題にならない。ただ治ったという事実が大切です。体重が増したとか、終日よく働く・気転が利くようになったとかいう事実を観察して、初めて治ったという事が、決まるのであります。

 (白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.448

 本人とっては症状がよくなっていないように思えても、たとえ辛いままであっても、仕事や勉強や家事ができる状態になっている、そして、周囲に気を配って行動できるようになっている、という客観的事実があるのならば、すでに治っているのである。「気分は後からついてくるもの」と患者さんたちには説明している。そして、いつかは主観的事実においても治っているのだ。神経症は、いつ治ったかわからないが、気がついたら治っていた、という治り方をするのである。

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