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2019年11月14日 (木)

神経質礼賛 1686.其前を謀らず、其後ろを慮(おもんぱか)らず

 私たち神経質人間は過去の失敗を思い返して、ああしていればよかったのにとか、こうしておけば今頃は違った結果になっていたのになどと悔しがる。そして、先のことをクヨクヨ考えて、もうダメになってしまうのではないか、悪い事ばかりが待ち受けているなどと取越苦労する。過去のことをあれこれ考えても、もはやどうにもならないし、未来のことは自分がベストだと思った行動を取ったならば、後はなるようになるしかないのであるから、これまたいくら考えても仕方がない。そこで、森田療法では「現在になりきる」「今を生きる」ことを説いている。森田正馬先生は、現在になりきるということは、前を謀らず、後ろを慮らず、ということだ、と言っておられる。

 いわゆる「現在になりきる」とか、達磨大師の仏性論で「故に至人は、其前を謀らず、其後ろを慮らず」という言葉について、私が最近に体験した事をお話しします。この「現在になりきる」ことによって神経質は治るのである。
(筑波山のケーブルカーの駅から妻ともう一人の同行者が頂上に登っていき、森田先生はそこで待つことにしたが、一歩一歩歩いているうちに頂上に着いてしまったという話、さらに家族旅行で富士登山をした時に体調不良で一人引き返した話をされて)
 霧雨は降る。息は苦しい。山を降りるかと思えば、なかなか登る事が多い。ついにすべての想像・予想を絶って、この後、幾万歩あるか、永久に歩く心構えで、足元ばかりを見て、歩数を数えて行った。何千歩であったか忘れたけれども、ふと窟室のところへ到着した。それが目的の(富士山)五合目の宿であった。この時にはなんの苦痛をも既に忘れていた。ただ永久に、足にまかせて歩くという気合があるのみであった。
 これが私の「現在になった」という事の体験である。その時には、自分が病気であるから、どんな大変が起こるかも知れぬとか、「其前を謀る」という既往の持前の事を苦にやみ、嘆くというような繰り言・世迷い言がなく、また「後に慮る」といって、頂上に登れないのが残念だとか、この病気が大変になるのではないか、とかいうような取越苦労や予期恐怖とかいうものはない。ただその現在になりきっているという心境である。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.139-140)

 しかしながら、「前を謀る」ことも「後を慮る」こともまるきり悪いことではない。ある程度は必要である。徳川家康の「しかみ像」(209話)のように、過去を反省して同じ失敗を繰り返さないよう気を引き締めることや、これから起こるかもしれない不慮の出来事を心配し、それに備えて貯金をしたり安全面に投資したり保険をかけたりしてリスクを軽減するのは、神経質の特技であり美点でもある。ただし、あまりにも前を謀り過ぎ後ろを慮り過ぎて頭の中を空転させ、行動が止まってしまうようではいけないから、前を謀らず、後を慮らず、という指導になってくるのである。

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