神経質礼賛 1700.古事記を音読する意味
森田正馬先生の入院治療では、起床時と就寝前の5分間程度、古事記を音読するのが習わしとなっていた。それに倣って三島森田病院でも古事記音読が日課の一つになっていた。いつの間にか自然消滅してしまったが、熱心な看護師さんの発案で、また復活している。しかし、何のためなのだろうか。脳波のα波が出やすくなるとかリラックスできるとかの効果でもあるのだろうか。なぜ古事記なのだろう。平家物語のように七五調になっているものならばリズミカルに読めてもっといいのではないか、と疑問に思ってしまう。
「生活の発見」誌の創始者、水谷啓二さんも古事記音読は何のためなのか疑問に思われたそうだ。今からちょうど50年前の1969年12月に水谷さんがラジオ関西から「森田正馬」というテーマで放送された中でそのことが語られている。その原稿が「生活の発見」誌1970年5月号に掲載され、さらに今年2019年の5月号に再掲されている。「意味はわからなくとも、ただ棒読みすればよい」とだけ言われ、先輩患者に古事記を音読する理由を聞いても納得がいく説明は得られなかったが、水谷さんは仕方なく素直に音読していた。その後、だいぶ年月が経ってから、古事記を読まされた意味がわかってきたそうだ。神経質者が劣等感にさいなまれ症状に苦しむのも、この一生をただで終わりたくない・偉くなりたい・真人間になりたいとの憧れに対する・やるせない苦悩なのだ、と森田先生は言っておられる。この真人間、つまり純なる心に生きる人間こそ、古事記にいうところの神々であると水谷さんは悟ったそうである。もちろんこれは水谷さんの解釈であって、正解かどうかわからない。神経質人間は理屈にこだわり納得がいかないとバカバカしいと切り捨てがちであるのを戒め、理屈抜きでとにかくやってみる習慣を付けさせる目的もあったのかもしれない。
令和の最初の年が終わろうとしています。今年も何とか1か月10話ずつ書き続けることができました。これも神経質のおかげだと感謝しています。お読みいただきどうもありがとうございました。
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