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2020年1月30日 (木)

神経質礼賛 1710.「聊」の読み

 現在、入院の集団療法の際、輪読しているのが『神経質でよかった』(白揚社:山野井房一郎著)である(660-661-662話)。山野井さんが対人恐怖と書痙に悩んで森田先生のところに入院したところを読んでいて、出てきたのが、臥褥前に「無聊をなぐさめるようなことは一切してはならない」という一文である。「無聊をなぐさめる」「無聊を託(かこ)つ」はしばしば見かける言葉であり、無聊とは退屈・暇のことだろうとは理解していたが、さあ、読みは自信がない。恥かしい話である。一人での読書だと意味が分かれば読み流してしまうので、漢字の読みがわからなくても読めてしまうのだ。輪読しているといかに自分が読みを知らないかに気付かされる。国語辞典で探してみると、「ぶりょう」だった。

 そもそも「聊」という漢字を見ることはあまりない。「わずか」「いくらか」「たのしむ」「かりそめの」「たよる」など、いろいろな意味があり、無聊は「楽しみがない」つまり「することがなくて暇」ということになる。さて、「聊」の訓読みはどうなるだろうか。「聊か」は「いささか」と読む。少ないこと、わずかなことを示す。ただし、文脈によって意味が変化することがある。「聊か自信がある」は謙遜のニュアンスがあり、本心は「結構自信がある」ということになる。また、「聊か変なのではないか」となると婉曲表現になる。このあたりは「聊か」を現代風に「ちょっと」に置き換えると理解しやすい。「聊」という漢字、いささか難物である。

2020年1月26日 (日)

神経質礼賛 1709.神経質力士の活躍

 4年半ほど前に「神経質力士の誕生」(1176話)と題する記事を書いた。とても緊張しやすく、教員への道を目指すも教育実習で失敗するなど、いろいろ挫折を経験してから角界に入ったという変わり種の正代(しょうだい)が十両に昇進したという話である。親方から「マイナス思考で弱気」と叱られていると新聞記事に書かれていた。私は大相撲にそれほど興味があるわけではないが、その記事を書いて以来、正代の相撲はずっと気になっていた。その後、同世代でかつて学生横綱の座を争った遠藤と同様、幕内に昇進しているけれども、女性ファンが多くテレビのCMにもよく出る遠藤と比べるとかなり地味な存在である。森田の言葉「柳は緑、花は紅」の柳と花くらいの違いである。前頭四枚目の今場所は快進撃を続けてきた。相手から厳しく攻められてもこらえて反撃して白星を重ねていた。昨日の一敗同士の徳勝龍との対戦では惜しくも敗れ、千秋楽の今日は勝って二敗を守って優勝への望みをつないものの、絶好調の徳勝龍が大関の貴景勝を破って優勝を決めて正代は準優勝に終わってしまった。しかし十三勝二敗は横綱不在の場所とはいえ、立派な成績である。華やかさはないけけれども地道に稽古を積んで良い結果を出すところは神経質らしい。これからもいい相撲を取って優勝を争って欲しいものである。

2020年1月23日 (木)

神経質礼賛 1708.気分は書かない

 普通、日記と言えば、人に見せるものではなく、自分の思いを綴るものである。記録や備忘録としての実用的な面と気持ちを整理し書いて表現することでカタルシスを得るというような面もある。森田療法では日記指導が行われるが、通常の日記とは異なり、自分の行動を振り返るとともに、治療者にアドバイスしてもらうためのものである。入院患者さんに書いてもらうものは大学ノートを横にして1日1ページ、縦に1行おきに書いていく。上部に線を引いて空欄とし、そこに治療者が赤字でコメントを書けるようにしておく。外来で行う時には2週間とか4週間分を一度に見なければならないので、最初から2冊用意してもらって、交換していく方法を取る場合もある。私は外来では診察前に渡してもらって読んでおくか、その場で会話しながら読んでいき、コメントを書きこんでいる。日記の内容は行動を中心とし、症状や気分は書かないように、としている。それでも神経症の人は、愚痴をこぼすのが習慣となっていて、症状や気分の記載が多い。あまりにも気分の記載が多い人には「気分は書かない」と注意を与えることがある。

 日記に気分を書かない、というのでは日記ではなく、まるで会社員が書く日報みたいだと言われる方もおられるだろう。人間らしくない、と批判する方もおられるだろう。しかし、これも「症状は不問」という森田療法独特の治療技法からくるものである。気分の良し悪し、症状の有無に一喜一憂するのではなく、行動本位の充実した生活に導くための指導法なのである。治療が進んでくると、自然と症状や気分の記載は減っていき、その日の行動の記述がほとんどとなってくる。そうなれば症状へのこだわりが次の症状を引き起こす無限ループの悪循環から抜け出せるようになっているのである。

2020年1月19日 (日)

神経質礼賛 1707.呼び水

 前話で「小さいことで良いから手を付けやすい簡単なものから始める」のがコツだと書いた。完全欲が強い神経質人間は、こんな小さなことをやったところで何にもならないと考えて、やろうとしない傾向がある。しかし、その小さなことをやるか、やらないかが大きな差を生み出すのだ。私の場合も次々と書かなければならない書類が発生する。簡単に書けるものはいいとして、いろいろ調べたり人に聞いいたりしなければ全部は書けないものもあって気が重くなる。面倒だなあと思っているとすぐに溜まってしまって大変なことになる。やるからには完全にやりたいのが神経質の特徴だけれども、例えば介護認定のための医師意見書の場合、とりあえず、患者さんの氏名だけでも書いておく。すると、それが気になって、もう少し書ける項目は書いて埋めておこうということになる。さらには、別の要件で病棟に行った時にでも、その人の状態を良く知っている病棟スタッフから情報を得ることができ、その上で本人を診れば全部書けるのである。

 この最初の一歩、小さな他愛のないことをやってみることには「呼び水」の効果がある。お若い方はポンプを見たことも触ったこともないだろう。呼び水はもはや死語になってしまっているけれども、やはりこれが直感的にわかりやすい。ポンプの吸水管に空気が入ってしまっていると、なかなか水が出てこない。そこで、少し水を給水管に入れてあげると水を汲みあげられるようになる。これが呼び水である。

 ああでもない、こうでもない、と考えて空費させるだけの時間があれば、できることはいくらでもある。呼び水効果が出ればそれが「生の欲望」を刺激してもっとやってみよう、ということになり、次々と動くようになっているのである。そして、仕事がどんどんはかどるばかりでなく、いつしか「症状」は忘れている。

2020年1月16日 (木)

神経質礼賛 1706.まず手を出して始める

 神経質人間は行動する前にあれこれ考えがちである。失敗したらどうしよう、こんなことをやっても無駄なのではないか、時間や手間がかかって嫌だなあ・・・。良く言えば「石橋を叩いて渡る」であって、軽率な行動のために起こる損失を防ぐことができる。その反面、ああでもない、こうでもない、と頭の中を空転させて時間を空費してしまうとか、やろうかやるまいかと考えるだけで行動に移さず、「石橋を叩くだけで渡らない」になって、チャンスを逃すということも起きる。勉強になかなか手が出せないという学生さんや仕事の着手が遅くて仕事を溜め込みがちだという会社員さんの話をよく聞く。森田正馬先生は、まず手を出して始める、という話をした上で次のように言っておられる。

 上に述べたような事は、気の軽い気質の人には、生まれつきで自然にできる。しかしそれは、単に軽率であって、まとまった努力の仕事はできない。
 しかるに、気が重くて何事にもおっくうな神経質の人が、修養により捨身の態度ができて、気軽に手を出すという事ができるようになれば、それは一つの悟りのような状態であって、ただの軽率とは全く違う。例えば気の軽いのは、貧乏で金遣いが早いようなものだが、神経質のほうは、金持でよく散じ・よくもうけるようなものである。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.760-761)

 ともすると、「どうすれば早く手が出せるようになるか」と質問する人もいるが、こればかりは理屈ではなく行動である。百の理屈より一つの行動なのであって、森田療法の本を何十冊も熟読しても実行しなければ何もならないのである。自分でまず一歩を踏み出す他に方法はない。そのためには神経質を生かしている人の気合いに触れるのは効果的である。入院森田療法や集団森田療法だけでなく「生活の発見会」のような自助グループで良い先輩をお手本にしていけば効果がある。そして、一つだけコツを言えば、小さなことで良いから手を付けやすい簡単なものから始めていくことだ。「神経質は重い車」と森田先生が言われたように、簡単には動かないが、わずかでも回り始めればしめたもので、より少ない力で回るようになるものである。そうなれば自然と行動の連鎖となってくる。

2020年1月12日 (日)

神経質礼賛 1705.明智光秀はレビー小体型認知症だった?

 今年のNHK大河ドラマは明智光秀(?-1582)を主人公としているため、何かと光秀が話題に上ることが多い。かつては「三日天下」と揶揄され、主君を倒した狡猾非道な人物かのように言われていた。最近では大変な部下思いで、優れた街づくり・城づくりをし、税負担を軽くして領民から慕われ、一人の正室だけを愛した、和歌や茶道に通じた文化人であった点などが知られるようになり、そのイメージは変わってきている。1月9日に放送されたNHKの「偉人たちの健康診断」は「明智光秀 本能寺の変“敵は腸にあり”」というテーマだった。

 番組の中では、本能寺の変の前の光秀の異常・・腐った魚の臭いに気付かなかった、チマキを皮のまま食べた、おみくじを何度も引いた、を上げ、レビー小体型認知症だったとし、さらにその原因はその6年前にかかった腸の重病だとする説を紹介していた。現在、レビー小体型認知症は認知症全体の約2割を占めると言われていて、私も入院患者さんを受け持つことがある。幻覚(特にリアルな幻視)やそれに伴う妄想、悪夢や大声での寝言、認知機能の日内変動、パーキンソン症状などが認められる。幻覚や妄想を抑える薬の多くはドーパミンを遮断するので、パーキンソン症状を悪化させてしまうため、治療に難渋することがある。

 光秀はレビー小体型認知症だったのだろうか。絶対になかったとは言い切れないが、その可能性は低いのではないかと思う。家康接待の「腐った魚」は馴れ寿司を信長に誤解されたためとも言われる。認知症があっては、本能寺襲撃は遂行困難だったろうし、パーキンソン症状と思われるエピソードも見当たらない。感染症による腸の重病というが、これは石山本願寺を攻撃中に激しい反撃にあって、あわやのところを援軍に助けられた後のできごとである。PTSDあるいはうつ状態だった可能性もある。光秀は豪傑タイプの人間ではない。周囲に気を配って上手に調整する能力に優れていて、幾分神経質な面も持ち合わせていた人なのではないだろうか。本能寺の変を起こす前の強い心理的不安から異常とも見える行動があってもおかしくない。

 犯罪心理学者による、過剰適応の積み重ねからくる「衝動説」も紹介されていた。過剰適応を続けて信長に取り立てられてきたことは確かである。叡山焼き討ちなどは本人はやりたくないことだったが、信長のために汚れ役を買って出た面がある。信長の御機嫌を損ねたら功臣でも簡単に切り捨てられる。ブラック企業の役員のような立場である。本能寺の変の少し前、信長から領地替えを言われたのが大きな引き金になったとしている。毛利氏が支配する国への転封、それは戦に勝って領土を取らなければ自分の領地を没収され、家臣たちが路頭に迷うことを意味する。そのため、衝動的に本能寺の変を起こしたというのだ。大きな流れはそれで合っているが、事前に自分の重臣たちと綿密に話し合って計画しなければできないことである。それに秀吉の援軍として中国地方へ向かうはずの道と京へ向かう道の分岐点から本能寺までの移動に要した時間が長過ぎるのを根拠とし、実は一度信長に会ったのではないかとしているが、当日は新月で月明かりがなく、その中を目立たないように時間をかけて大軍を動かしたためのことだとも考えられる。日本史最大の謎「本能寺の変」に関しては従来からいろいろな説が唱えられ(989話)、これからも新しい説が出てくることだろう。楽しみである。

2020年1月 9日 (木)

神経質礼賛 1704.三島そば処

 JR三島駅の新幹線・在来線ホームには駅弁を手掛ける桃中軒の立ち食いそばがある。それとは別に、伊豆箱根鉄道三島駅の改札脇にそば屋があって、以前からとても気になっていた。この「三島そば処」のそばは駅そばには珍しく注文を受けてから生麺を茹でている。高校生さんには大盛や卵サービスもあるらしい。しいたけそばが売り物で、B級グルメの三島コロッケもあって、民放ローカル局のグルメ番組に出たことがある。そこを通るのは、保健所の精神保健相談に行く時だけである。行きは昼食後でとても食べられないし、帰りは夕食に影響が出てしまうので、食べる機会がなかった。今年の東京オリンピックに合わせて近くに高層ホテルができる。沿線では自転車競技も行われるからそれに備えて駅舎が改装される。数日前のローカルニュースで改装工事に合わせて閉店になることを知った。これはぜひとも食べておかなくては。

 昨日がちょうど営業最終日だった。店内の券売機で、しいたけそば450円のチケットを買う。閉店サービスで大盛り無料とのことだが、普通盛にしてもらった。札をもらって麺が茹で上がるのを待つ。店員さんは食べ終わって名残惜しそうにしている常連客と会話している。「どこか他で店をまたやるの?」と質問する人に「もうやらないよ」と答えていた。スライスした地元産しいたけを出し汁で煮込んだものとワカメと刻みネギが載ったそばが出来上がる。やはり、その場で茹でただけあって歯ごたえが良く、汁もあまり塩辛くなくて、安くても老舗そば屋に負けない味である。何でも新しくなるのはいいけれども、古くて良いものが消えていくのは寂しい。

2020年1月 5日 (日)

神経質礼賛 1703.老人病院

 今では医師国家試験に合格すると研修医として大規模な病院で各科を巡回して研修を受ける。どちらかと言えばお客様的な扱いであり、経済的にも保証されている。精神科医を希望する研修医も一通り全科を回ってから精神科の研修を受けることになっている。私が医師になった頃は最初から決めた科の医局に入局してそこの科で研修を受けるスタイルだった。日雇い扱いの薄給で最初の1年は「奴隷生活」であり、早朝から深夜まで多くの雑用をこなさなければならなかった。それでも精神科は比較的緩く、入局3カ月後から研修先の大学病院に申請して地域貢献ということで、医局の関連病院で週1日は公然とアルバイトができた。

 私は老人病院に派遣された。初めての勤務の日、病棟を案内されていた矢先に看護婦さんから「ナートをお願いします」と言われた。一瞬わけがわからなかったが、転倒して頭部裂傷をきたした患者さんの縫合処置(独:Naht)をして下さい、ということだったのだ。持針器で縫合用の針を操作して縫合し、最後に糸結びする練習はしたことがあるけれども、実際にやったことはなかった。しかし、できないとは言えない。恐る恐る処置をする。一週間後に抜糸し、きれいに付いていてホッとした。その後も「ナートして下さい」は時々あった。転倒した際に顎を強打して、犬歯が唇を貫いてしまった人を見た時にはビビったけれども、どうにか縫合処置をした。一週後に抜糸し、二週後にはほとんど跡形もなくなく回復されているのを見て、人間の自然治癒力は凄いものだと感心したものだ。神経質の人で、自信がないからできない、と仕事に手を出さず回避する人がいるけれども、最初から自信があろうはずはない。自信はないまま行動していくしかない。自信は後から付いてくるものである。

 先月、母親が家の中で転倒して歩けなくなり、救急搬送先の病院に入院したということを書いた。幸い骨折はなく、筋肉の損傷だけだった。とはいえ、痛みが残り歩けない状態が続いていた。病院のケースワーカーさんから連絡があり、急性期の病院なので、自宅に帰れないのであれば転院先を当たってほしいとのことだった。転院先の候補として紹介してくれたのが、山奥のリハビリ病院と、市街地からそう遠くない老人病院だった。結局、老人病院に転院することになり、私の年末の当直勤務の合間に転院となった。療養病棟で入院期間は2カ月以内ということになっている。本人はすぐにでも退院したがっているけれども、歩けるようにならなくてはどうにもならないし、今後のことを考えると介護認定を取る必要がある。転院したその日に区役所へ行って、申請手続きをしてくる。それ以外にも家の中を片付け、介護サービスが受けられるよう準備していかなくてはならない。とりあえず、新年早々、またゴミ処理である。

2020年1月 2日 (木)

神経質礼賛 1702.年々是好年

 元日の朝は曇り空。初日出は見られなかった。午前8時頃には郵便配達バイクが来て、ポストに年賀状が投入された音がする。今年は妻の父親宛てのものも入っている。年賀状を見て、分厚い新聞を読んで過ごす。妻や帰省している子供たちがだんだん起き出してくる。例年は家族で妻の実家へ行き、おせちを食べてから瀬戸川沿いの日限地蔵に初もうでに行っていたのだが、今年からはそれはできなくなった。家でおせちを食べてから歩いて静岡浅間神社へ行く。多くの参拝客で賑わっていた。人の流れに従って少しずつ本殿に進んでいく。賽銭を投じて拝み、横に歩いて出て行こうとすると、妻はまだ長々と拝んでいる。私は寺社を参拝する時は特に願をかけない。だから拝んでいるのはものの5秒位である。こうして生きていられるのはそれだけで実に幸せなことだと有難く思う。後は自分の行動次第である。

 正月には今年がよい年でありますように、と誰もが祈念する。けれども、正月が過ぎて日常生活に戻ると、今年こそ○○しようという新年の誓いも忘れ去って三日坊主になりがちである。一年は一日一日の積み重ねでできている。どの一日にも元日と同じ価値がある。祈りや誓いがなくても、「日々是好日」(50)・・・気分はともかく苦しくても行動して充実した一日が送れれば良い日である・・・を積み重ねていけば「年々是好年」ということになってくるのだ。

 1月2日の朝は快晴。屋上から富士山がくっきり見える。足元がクッションを踏んでいるように感じる。よく見ると霜柱が立っている。屋上の霜柱は初めての経験である。7時過ぎに山の端から赤く大きな日が昇り始める。晴れの日もあれば雨の日もある。天気はどうにもならない。気分も同様だ。それでもその時々、今できることをやっていくのが森田正馬先生の言われる「あるがまま」なのである。

2020年1月 1日 (水)

神経質礼賛 1701.森田先生の年賀しらべ

 メールやSNSを利用する人が増えて、年賀状の枚数は減る一方だという。個人情報の関係で名簿が作りにくくなっていることも一因だろう。私の友人・知人にも年賀状を出さない人がいて、私の年賀状の枚数もピークの80枚から現在は50枚程度に減っている。しかし、毎年、元日に配達された年賀状を見るのは楽しみではある。記録魔の森田正馬先生は、年賀状を分類して枚数を記録しておられた。

(年賀しらべ)

昭和十二年度の年賀・受信総数九五四人。

其内、知人、五一二人。内、喪中、一八。

  患者、二〇八。学友・同窓、四〇。

  教へ子、三二。其他、二一四.

未知の人、四四二人。内、喪中一九。

  郷里小学生、二九。広告類、六三。

  肩書によりて知るもの(慈大学生、七。医師、四二)

  先生の称により、卒業生か・学生か・患者かを推測するもの 四六。

  先生の称、又は慈大関係の教室若しくは病院の肩書によりて、卒業生といふ事を知るもの 七〇。

  其他不明、一六七。

 年々の年賀や暑中見舞により、姓名はよくおぼへて、而かも其身分を知らぬ人が、相当に多い。今迄、患者か商人かと思ツて居た人が、肩書のついた年もあツて、それが医学博士であツたりする事もある。

 余は生来、人の名の記憶が非常に悪い。父もさうであツたが、遺伝かも知れない。

 初対面の訪問者などあツた時、後で直ぐ其名を忘れ、妻に問ふて、思ひ出すといふやうな事もたびたびあツた。

 診察した患者なども、其名は直ぐ忘れるが、病名や容姿で問はれると、よく思ひ出す事ができる

という風である。(白揚社:森田正馬全集 第7巻 p.522

 郷里の小学生から29通も年賀状が届いているのは驚きである。森田先生は倹約家であったが、郷里の小学校には多額の寄付を惜しまなかった。森田館と呼ばれた講堂を寄付したばかりでなく、備品や書籍、ブランコや滑り台などの遊具まで寄付していたから、小学生達には慕われ、とても尊敬されていたことだろう。小学生達からの年賀状をニコニコしながら読む森田先生のお姿が目に浮かぶ。

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