神経質礼賛 1701.森田先生の年賀しらべ
メールやSNSを利用する人が増えて、年賀状の枚数は減る一方だという。個人情報の関係で名簿が作りにくくなっていることも一因だろう。私の友人・知人にも年賀状を出さない人がいて、私の年賀状の枚数もピークの80枚から現在は50枚程度に減っている。しかし、毎年、元日に配達された年賀状を見るのは楽しみではある。記録魔の森田正馬先生は、年賀状を分類して枚数を記録しておられた。
(年賀しらべ)
昭和十二年度の年賀・受信総数九五四人。
其内、知人、五一二人。内、喪中、一八。
患者、二〇八。学友・同窓、四〇。
教へ子、三二。其他、二一四.
未知の人、四四二人。内、喪中一九。
郷里小学生、二九。広告類、六三。
肩書によりて知るもの(慈大学生、七。医師、四二)
先生の称により、卒業生か・学生か・患者かを推測するもの 四六。
先生の称、又は慈大関係の教室若しくは病院の肩書によりて、卒業生といふ事を知るもの 七〇。
其他不明、一六七。
年々の年賀や暑中見舞により、姓名はよくおぼへて、而かも其身分を知らぬ人が、相当に多い。今迄、患者か商人かと思ツて居た人が、肩書のついた年もあツて、それが医学博士であツたりする事もある。
余は生来、人の名の記憶が非常に悪い。父もさうであツたが、遺伝かも知れない。
初対面の訪問者などあツた時、後で直ぐ其名を忘れ、妻に問ふて、思ひ出すといふやうな事もたびたびあツた。
診察した患者なども、其名は直ぐ忘れるが、病名や容姿で問はれると、よく思ひ出す事ができる
という風である。(白揚社:森田正馬全集 第7巻 p.522)
郷里の小学生から29通も年賀状が届いているのは驚きである。森田先生は倹約家であったが、郷里の小学校には多額の寄付を惜しまなかった。森田館と呼ばれた講堂を寄付したばかりでなく、備品や書籍、ブランコや滑り台などの遊具まで寄付していたから、小学生達には慕われ、とても尊敬されていたことだろう。小学生達からの年賀状をニコニコしながら読む森田先生のお姿が目に浮かぶ。
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