神経質礼賛 1702.年々是好年
元日の朝は曇り空。初日出は見られなかった。午前8時頃には郵便配達バイクが来て、ポストに年賀状が投入された音がする。今年は妻の父親宛てのものも入っている。年賀状を見て、分厚い新聞を読んで過ごす。妻や帰省している子供たちがだんだん起き出してくる。例年は家族で妻の実家へ行き、おせちを食べてから瀬戸川沿いの日限地蔵に初もうでに行っていたのだが、今年からはそれはできなくなった。家でおせちを食べてから歩いて静岡浅間神社へ行く。多くの参拝客で賑わっていた。人の流れに従って少しずつ本殿に進んでいく。賽銭を投じて拝み、横に歩いて出て行こうとすると、妻はまだ長々と拝んでいる。私は寺社を参拝する時は特に願をかけない。だから拝んでいるのはものの5秒位である。こうして生きていられるのはそれだけで実に幸せなことだと有難く思う。後は自分の行動次第である。
正月には今年がよい年でありますように、と誰もが祈念する。けれども、正月が過ぎて日常生活に戻ると、今年こそ○○しようという新年の誓いも忘れ去って三日坊主になりがちである。一年は一日一日の積み重ねでできている。どの一日にも元日と同じ価値がある。祈りや誓いがなくても、「日々是好日」(50話)・・・気分はともかく苦しくても行動して充実した一日が送れれば良い日である・・・を積み重ねていけば「年々是好年」ということになってくるのだ。
1月2日の朝は快晴。屋上から富士山がくっきり見える。足元がクッションを踏んでいるように感じる。よく見ると霜柱が立っている。屋上の霜柱は初めての経験である。7時過ぎに山の端から赤く大きな日が昇り始める。晴れの日もあれば雨の日もある。天気はどうにもならない。気分も同様だ。それでもその時々、今できることをやっていくのが森田正馬先生の言われる「あるがまま」なのである。
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