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2021年3月25日 (木)

神経質礼賛 1849.桜か柳か

 静岡市の中心部では廃校になった青葉小学校跡に歴史文化施設の建設工事が続いている。それに加えて、「にぎわい空間創出事業」と称して近くの外堀周辺の工事も行われてきて、歩道が拡張されて一部は堀側に張り出すちょっとした広場スペースができた。春の静岡まつり、秋の大道芸の観光客を増やそうという目論見らしい。歩道が広くなって歩きやすくなったのは大歓迎であり、確かに都市らしい雰囲気は出てきたが、景観としては疑問がある。以前は外堀の外側の通り沿いには柳の木が並んでいて落ち着いた城下町らしい風情があった。中学生の頃はその下を歩いて通学していたものだ。後から思えば、荒井由実の「卒業写真」の歌詞「♪話しかけるように揺れる柳の下を通った道さえ今はもう・・・」である。柳の緑と対比するように、春には外堀の内側の石垣の上の桜が咲き、実にいい感じだった。ところがこの周辺の柳の木が全部切られて新しく桜の木に植え替えられてしまった。桜が咲いている時期はいいとして、そうではない一年の大部分が寂しくなってしまうのではないのか。柳が姿を消して、その価値を改めて思い知らされた。

 森田の言葉に「花は紅、柳は緑」(3話、拙著p.123-124)というものがあり、「あるがまま」と同義と解釈されている。桜に代表されるような花は紅色であり緑色になろうとしてもなれない。柳は緑色であり目立つ紅色になりたくてもなれない。何のはからいもなく、そのままの姿で立っているのだ。私はもう一歩深読みして、「花」は外向的・積極的で目立つ(典型的にはヒステリー性格の)人、「柳」を神経質の象徴としてみる。柳は強い雨風を受け流して佇み、桜花のような派手さはないけれども、その美しい緑で一年中人々の目を愉しませてくれる渋い名脇役のような存在である。自分はパッとしない、ダメ人間だ、などと凹む必要は全くない。神経質には神経質の良さがある。それを生かしていけばよいのである。

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