神経質礼賛 1846.先生の話はさっぱりわからぬ
前話の「わからずに居る」ということは、森田正馬先生のところでもあったようである。月1回の形外会での先生の講話や普段の生活場面での指導について、さっぱりわからないという患者さんはいた。少し長いが紹介しておこう。
思いきって、僕のいう事を聞くと簡単に治る。治った人の真似をすれば治る、屁理屈をいう人は治らない。誠に厄介者です。
入院患者の日記に、「先生のいう事は、サッパリわからぬ」という風に、書いてある事がある。こんな事を書く人はよくない。先生は決して、わからぬ事をいう「わからず屋」であるはずはない。その患者のわからぬというのは、例えば「庭に出て、掃除をしているように」と教えれば、「掃除なら家でもしていた。掃除をして、病気が治るとは、サッパリわからない」とこういうのである。「こうすれば治る」「この薬は効く」とかいうのは、ただ医者ばかりが知っていて、その因果関係を患者が知るはずはない。もしそれがわかっているならば、入院治療の必要はない。とうから自分で治しているはずである。「ああそうですか」と、いわれるままに、その通りにしていれば、治るにしたがって、初めてそれがわかるようになる。「サッパリわからぬ」とかいう人は、横着であり、はなはだ大胆である。「こんな事をして治るのは不思議な事だ。合点が行かぬ」と思いながらも、黙々として、その通りに実行するのを素直とか柔順とかいうのである。素直とは、自分でわからぬながら、自分の信頼する人の教えるままに、仮に「そうかなあ」と定めて、試みにやって見る事である。少しも難しい事はない。「わからない」と断言して、少しも実行してみようとしない。これが横着であり強情である。この素直と強情との区別が、治ると治らないとの分かれ道であります。(白揚社:森田正馬全集第5巻 p.431)
自意識が強い神経質人間は、わかった風に装う、ということを嫌う。自分を欺くのは嫌だ、嘘をつくのは嫌だ、わからないのだからわからないと主張したい。ましてや「治ったふりをする」などもってのほかである。しかし、それは、自分はこんなにつらい症状があって、そのせいで仕事や勉強ができない、と声高に主張するのと同じである。そう主張しているうちは症状の呪縛から逃れられないのである。柔順な者ほど治りが早い。
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