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2021年4月29日 (木)

神経質礼賛 1860.カーテンコール

 つい最近、私の外来に来るようになったバリバリの強迫の人がいる。かれこれ30年ほど何人かの森田療法家や生活の発見会を渡り歩いてきた。仕事をしておらず、日常生活も立ち行かなくなり、風呂にも入っていない。初診の時は大幅に遅刻。強迫の人は概して時間が守れない。いろいろ確認するため万事に時間がかかって、家を出るのが遅くなり、結果的には約束の時刻に間に合わず時間にルーズということになってしまうのだ。そして、順番が来て、呼び出してもなかなか入室しない。長時間トイレに籠って人目につかないところで確認行為や儀式をやっているのである。何度も呼び出してやっと入室してきたかと思うと大量の荷物を持ってきて、その中からノートを探して取り出すまで時間がかかる。そしてノートを見ながらしゃべり出したら過去の話を果てしなく続けて止まらないし、何度も確認を求めてくる。多くの外来患者さんを抱えているので、私が外来で面接できるのは10分間、本人の御希望に沿って薬は使わず日記指導で外来森田療法を行っていく、ということで了解されたが、出ていくまでにこれまた時間がかかる。そして、次の患者さんを呼ぼうかという時にまた入ってきて、あれこれ確認していくのだ。ありがたくない「カーテンコール」(演奏会の終わりに指揮者や演奏者が拍手に答えて再登場して挨拶すること)である。再診の時も、予約の時刻より大幅に遅れてやってくる。本人によれば、朝、洗濯物を干そうかどうしようかと思ったが、干していたら時間がかかってしまったと言う。そして、日記のノートは買ったけれども書けないから持ってこなかったという。優先度の高いことからやっていくようにと指導する。10分という約束が結局は30分近くかかって、後の患者さんを待たせてしまうことになる。

 その人の行動について、「木を見て森を見ず」「本末転倒」「二兎追うものは一兎をも得ず」などと説明すると、いたく納得されるが、実際の行動を変えない限り改善は見込めない。「自分は森田で治りますか?治りますよね?」と何度も問うてくるが、「あなたの行動次第ですよ。そして、治るとか治らないとか言わなくなった時に治っていますよ」と答えている。とにかく理屈より行動である。「わからずに居る」(*)(1845話)ができる素直な人ならばどんどん良くなってカーテンコールもなくなるのだけれども。

(*)岡本重慶先生、4月2日付の京都森田療法研究所ブログに詳しく御解説いただきありがとうございました。

2021年4月25日 (日)

神経質礼賛 1859.労働力調査

 母親が施設に入所した後も、週に2回は家に行って異状がないか確認し、郵便物をチェックし、ざっと掃除機をかけている。玄関のドアホンのカメラ記録があるので、いつどんな人が来ているか見ることができる。先月、3回も同じ人が来た記録があって、最後にポストに「労働力調査」と書かれた大きな封筒が入っていた。開けてみると、何やら国勢調査のようなアンケート用紙と総務省統計局長からのお願い状が入っている。実際に依頼に回っているのは県統計調査課人口就業班という部署に属する県職員だ。雇用動向や就業者の労働実態を把握して、完全失業率などの計算などに使うために、全国で約4万世帯を対象に調査するのだそうで、2カ月連続でアンケートに答えなくてはならない。宝くじには当たらないのにこういう妙なものに当たってしまうものだ。それにしても、母のような90近い高齢者の単身世帯にアンケートを依頼するのもどうかと思う。働いている可能性はまずないし、介護に来ている家族が書くことになる。面倒だと思いながらネット回答したら、今月もまた2回目の回答を要求する封筒が入っていた。気分はともかく、やっつけるに限るので、これまたすぐにネット回答する。

 最近は、国勢調査の回答率が下がっているという話もあるけれども、この労働力調査はさらにプライバシーに関わる内容もあり、回答を拒否できないか、という意見がネット上に出ている。勤務先名、仕事内容、雇用契約期間、勤務先の企業全体の従業員数、働いていなければ求職の理由などを書かなければならないから抵抗感が出るのももっともである。しかしながら、法的には拒否できないようだ。謝礼の品は地域によって異なり、ボールペンとかタオルらしいけれど、そんな物を置いて行かれても迷惑千番である。例えば地域限定で使える商品券でも配布すれば、もらって困らないし地元商店の活性化につながってよろしいのではないかと思うが、頭が固いお役人様方には考えつかないのだろう。来年もまた同じ時期に2回、回答しなくてはならない。来年もさっさと回答して終わらせようと思う。

2021年4月22日 (木)

神経質礼賛 1858.アサイッチ

 サンドイッチが美味しい店が家の近くにある、と妻が言う。アサイッチという店名を頼りに調べてみると朝6時半開店で家から500mほどの所にあるようだ。先日、朝8時に行ってみたら「本日分は完売しました」という紙が貼られていた。そこで、開店時刻に行ってみることにした。

 普段の通勤とは反対方向に歩いて行く。犬の散歩中の人たちがあちこちで集まって立ち話をしている。部活の朝練らしい高校生が次々と自転車で走って行く。(静岡の)清水寺前の公園にはラジオ体操をしている人たちがいる。暑くも寒くもなく快晴で気持ちが良い。神経質らしく6時半ピッタリに店に着く。中をのぞいてみると、色とりどりのサンドイッチが並んでいる。ところが、ドアは閉まっている。おかしいなあ、と思っていると、中から店員さんが出てきて小さな椅子を出して上に手の消毒液を置く。メンチカツとハムレタスサンド、フルーツミックスとイチゴサンドの2セットを買う。「保冷剤は要りますか?」と聞かれて、「すぐ冷蔵庫に入れるからいいです」と答える。朝の散歩の途中に買って、公園などで食べる人もいるのかもしれない。私は昼食に食べてみる。コンビニのサンドイッチとは異なり、直角二等辺三角形の直角部分までしっかり具が入っていて食べ応えがある。フルーツサンドは甘さ控えめでいい感じだった。

 この店は数年前からあるらしい。ここで調理して、他の2カ所の販売所にも出しているようだ。最近はコロナ禍で、夜の飲食店が昼や朝の営業に切り替えているという話をTVニュースで見る。皆さんがお住いの街にも朝早くから営業しているお店があるかもしれない。朝の光を浴びて睡眠リズムを整えるメラトニンを増やしながら美味しいものにありつけたら一石二鳥である。

2021年4月18日 (日)

神経質礼賛 1857.日常行為の癖

 森田正馬先生のところで月1回行われていた形外会では、神経質談義ばかりでなく食事が供されたり余興があったり全員で東京音頭を踊ったりしてレクリエーション的な側面もあったようだ。ある時、夕食が振舞われ、その後で参加者の日常行為の癖について人数を調べて発表された。

一 自分が座敷に坐っていて、そこを人が通ろうとするとき、人に自分の前を通らせようとする人、十五人。自分がちょっと体を前にずらせて、人に自分の後ろを通らせる人、二十七人。
二 自分の家にある蜜柑とか枇杷とかを食べるとき、悪いものから先に食べる人、二十人。よいものを先に食べる人、二十二人。
三 風呂に入るとき、ひと思いに飛び込む人、二人。ジリジリと、身体を沈める人、四十人。
四 同じく入浴するとき、惜し気なく風呂桶で湯を汲み出す人、八人。最小限度に倹約して使う人、三十四人。
五 食事のとき、おかずを好きなものから、先に食べる人、二十二人。好きなものを後に残して、最後に食べる人、二十人。
六 外出のとき、お金を持たずに平気で出る人、二人。金を持たねば不安心の人、四十人。
七 朝、顔を洗うとき、石鹸を使う人、十三人。石鹸を使わぬ人二十七人。
(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.541-542)

 一は畳の大広間での宴席が少なくなった現代ではあまり遭遇することのない場面だ。三、六は万事慎重な神経質だと当然そうなるだろう、という数字である。四、七は、森田先生のところでは水は無駄なく使うことを日常生活の中で教えられていたし、無駄な歯磨き粉を使わない習慣だから石鹸も普段あまり使わなかったのだろう。
 二の場合、果物は保存しているうちに痛みやすいから、傷みかけているものから早く食べようとするのが私の習慣だ。だから、神経質の集まりでは大差がつくかと思いきやほぼ半々の結果であり意外である。良いものから食べるというのもおいしく食べられるということで一理はある。また、五についても、私の場合は好きな物は徹底的に最後に残す。妻から「残しておくとパクっと食べちゃうよ」と冷やかされるのが常だ。これまた、形外会では好きなものを先か後にするかは互角である。この辺は神経質性格とは無関係の単なる癖ということになるのだろう。

2021年4月15日 (木)

神経質礼賛 1856.通し番号

 当ブログは現在16年目を走っている。後から考えて、やっておいてよかったと思うのが記事に通し番号を付けておいたことだ。番号を付けるのは無粋だけれども実用的である。番号とタイトルの一覧ファイルを作り、継ぎ足していっているので、タイトルから過去に書いた記事の番号を検索することができる。そのファイルは1ページ50行でもう38ページに及んでいる。それによって、同じテーマで書いていないかチェックできるし、引用記事を探し出して、その番号を記事に載せることができる。そして、引用記事の番号が第〇△□話であれば、読者の方も「神経質礼賛 〇△□」で検索すればよいから比較的探しやすい。引用記事にリンクを張れば非常に親切にはなるけれども、それはとても手間がかかるし、神経質ジャングルの中を彷徨っていただいて、予期せぬ話題の記事に当たる楽しみ(?)を味わっていただくのもいいかな、と勝手に思っている。さらには、神経質らしく1か月きっちり10話と決めているから、番号から容易に書いた年月もわかるのである。

 後悔しているのが、記事別のカテゴリーをきっちり付けてこなかった点である。どれも「心と体」のカテゴリーしか付けていなかった。神経質と森田療法だけのガチな記事ばかり書いていると疲れてくるので、自然と趣味の音楽関連の話題、季節の話題、C級グルメの話題も書く。だから、カテゴリーとして、「心と体」の次に「音楽」「季節」「グルメ」などのサブカテゴリ―も付けておいたら、例えば音楽関係の記事だけまとめて見ることもできてよかったのではないかと反省している。しかし今更どうにもならないので、このまま走り続けるだけである。

2021年4月11日 (日)

神経質礼賛 1855.一喜一憂しない

 神経質人間は、自分の状態を気にしやすく、評価点を付けたがる。よりよく生きたいという「生の欲望」が人一倍強いので、いわゆる点取り虫になりやすい。そして、その点数に一喜一憂しがちである。特に症状に悩んでいる人は、「昨日は症状が強かった。今日はどうだろうか。明日はよくなるだろうか」「これだけ作業したのだからよくなるはずだ」あるいは「これだけ頑張っているのに何もよくならない」などと考えがちである。これをやっているとますます注意が自分の方向に向いて、症状の呪縛から抜け出せなくなる。症状を相手にしないのが森田療法の骨子である。だから、私は患者さんに日記のコメントに「症状の有無に一喜一憂しないこと」「行動できればそれでよし」とよく書いていた。森田先生は次のように言っておられる。

 ここの修養法では、苦楽とか・善悪・正邪とかいう標準を、一切立てる事をしない。頭痛や不眠でも、そのままじっと持ちこたえるだけで、苦しいとか困るとか、口外する事を禁じる。まもなくこれが解消された時にも、さらにこれを喜んだり安心したりする事を決していわせない。喜べば必ずその反動で再発します。赤面恐怖でも、気になるとか苦しいとかいう事をいわせないと同様に、これがよくなって「外を歩いても平気になった」「人前で楽になった」とか喜んではいけないのです。
 それらの事は、みな起こるべきに起こり、かくあるべきにあるところの事実であるというまでの事で、腹がへれば苦しく、満腹すれば落着くというように当然の事である。これを日常百般の事に一つ一つ苦楽善悪で評価していっては、とうてい、仕事も間に合う事ではない。能率のあがるはずがない。  (白揚社:森田正馬全集第5巻 p.597)

 症状があろうがなかろうが、淡々とやらなければならないことをこなしていく生活習慣が身に付けば、いつしか症状はあってもないも同然になっているのである。

2021年4月 8日 (木)

神経質礼賛 1854.花の街

 日曜日の午後2時からNHK―FMで「×(かける)クラシック」という番組があって、楽しく聴いている。モデルの市川沙椰さんとサクソホン奏者の上野耕平さんが司会を務める番組であり、クラシックと他のジャンルを掛け合わせて紹介している。鉄道ネタのトークがあったり、上野さんがサックスで物真似をしたり、リスナーからの川柳投稿があったりと従来なかったクラシック番組である。このところ、花がテーマになっていて、先週の番組ではリクエストで團伊玖磨作曲・江間章子作詞の「花の街」が流れていた。

 この歌は戦後の混乱期、ラジオ番組のテーマ曲だった。「花の街どころの状況ではないけれども、こういう時だからこそ夢のある歌が必要だ」ということで、作られたそうである。ピアノの前奏がとてもお洒落な感じがする。「夏の思い出」の作詞でも知られる江間章子さんの歌詞もまたいい。今でも昭和の名曲として歌い継がれている。以前に勤務していた病院では患者さんたちと一緒に歌ったことがある。

 風に乗って、春が谷を越えて駆けて行き、街から街へ花を咲かせていく様子が歌われている。ところが3番の歌詞になると、春の夕暮れ、街角の窓で一人さびしく泣いている、というようにガラリと変わる。春が来ても、楽しいことやうれしいことばかりではない。現実の世界では悲しいこと、苦しいこともある。特に作詞された頃は、多くの人々が戦争のために、家族や友人を失い、心身に深い傷を負い、住処を奪われた悲しみを抱えていた時代だったことが背景にある。春が訪れる嬉しさを表現するだけでなく、心の中に秘めた哀しみにそっと寄り添うような深さがこの歌にはあって、そこが魅力なのだと思う。

2021年4月 5日 (月)

神経質礼賛 1853.シチリアーノの効用

 先日、yukimiyaさんから頂いたコメントに、バッハのシチリアーノ(ピアノ編曲版)を練習されているとの記載があった。これはフルートの名曲として有名な曲である。他にもシチリアーノと題する名曲は数多くある。私がパソコンで打ち込んで伴奏音源を作ったものだけでも、フォーレ、レスピーギ、パラディス、クライスラー作曲の4曲がある。時々弾くバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第1番の第3楽章も美しいシチリアーノだ。シチリアーノ(あるいは女性名詞のシチリアーナ、フランス語のシシリエンヌ)とは、8分の6拍子か8分の12拍子のシチリア舞曲のことである。多くは短調で書かれ、流れるような、ちょっと浮遊感のある旋律である。

 フォーレのものはハープの分散和音にフルートの旋律が乗っていて、オーケストラ編曲されて組曲ペリアスとメリザンドにも入っている。儚げな短調の旋律は途中で長調に転じ、薄日が射すような感じがするけれども、また短調に戻る。レスピーギのものはリュートのための古風な舞曲とアリア第3組曲の第3曲であり弦楽合奏の貴重なレパートリーだ。同じテーマが変奏されて表情を変えていくのが面白い。チェロ・コントラバスの活躍場面もある。TVのCM曲にも使われたそうだが、かつてFMのクラシック番組のエンディングに流されていたように思う。盲目の女性ピアニストで歌手でもあったパラディスのシチリアーノはほぼ全体が長調で書かれている。ほっと息を抜くような夕べの音楽といった感がある。クライスラーのものは当初フランクール作曲として発表され、現在はフランクールのスタイルによるシチリアーノと称され、上品な感じの曲である。

 どの曲も疲れた神経質をほんわり包んで揺りかごのように癒してくれる効用があるように思う。聴く(弾く)時間帯は夕方から夜の早い時間が最適のように感じる。騙されたと思って一度お試しあれ。

2021年4月 4日 (日)

神経質礼賛 1852.リモート顔合わせ

 一昨年の暮れあたりに、子供が結婚を考えて付き合っている人がいる、という話だったので、一度会食をしようということになったのだが、新型コロナの影響でお互い県外に出られなくなり、顔合わせどころではなくなってしまった。どんどん月日が経ってしまうので、まず、Zoomでリモート顔合わせをしようということになった。私も子供もZoomを利用したことはあるけれども主催したことはないから勝手がわからない。招待メールを送って欲しいと頼んでいたら、リンク先としてhttps//で始まる非常に長いアドレスを送ってきたので、何とかそれを入力したものの、IDとパスコードがわからない。電話連絡をして、それらをメール送付してもらい、開始時刻から15分遅れでようやく繋がった。

 初対面とは言え、お互い自宅で普段着のままの会話だからあまり緊張しないで済む。今の御時世からすれば、これが普通なのだろうか。今回は私と妻・子供とそのお相手と4人でのリモート顔合わせで、次回はお相手の御両親も交えてのリモート顔合わせ会をしましょうということで1時間で終えた。次までには家の複数台のパソコンでZoom会議をする練習をしておこうと思う。

 緊急事態宣言解除後の大阪では感染者が急増して東京を上回る数字が続いていて、東北地方での増加も目につく。いよいよ感染第4波に入ったと言われている。ワクチン接種は予定よりもだいぶ遅れていて、医療関係者にもまだ行き渡っていない。私自身が打ってもらえるのは来週か再来週になりそうだ。人々の自粛疲れや気の緩みも懸念材料だ。政治家やお役人様たちが大勢で会食をしていることが次々と発覚するようでは話にならない。神経質が足りな過ぎる。やはり県をまたがって人々が集まる冠婚葬祭は極力避ける必要がある。人と人とのつながりを維持していくためにはリモートで補っていく他はないだろう。

2021年4月 1日 (木)

神経質礼賛 1851.小言幸兵衛

 うつ病の人も良くなってくると、復職したり負荷の少ない仕事に移ったりして、そこで適応できていると、少しずつ減薬していき、やがて薬をやめて治療終結となる。しかし、長期にわたり休養と薬物療法が続いてしまう人がいる。うつの神経症化が起きていると考えられるケースも少なくない。不眠や種々の体調不良や意欲低下に対して本人の求めに応じて薬を増やしても、薬が効かないばかりか、薬の副作用も相まって収拾がつかなくなる。本人は「うつ病は休まなければならない」と決めつけて多少の痛みを伴うリハビリテーションを避けて家でゴロゴロしているし、家族も「何かあっては困る」と腫れものを扱うようにしているから、本人の体力や適応能力は低下していく一方である(312、313、328話)。

 かつての浜松医大では、そうした中高年の患者さんに十分に身体的な検査や心理検査を行った上で森田療法を行うことがあった。医師や看護師がフォローしながら、作業に参加してもらい、集団の中で役割を担ってもらう。薬はなるべく必要最小限に絞っていく。そして少しずつ健康的な部分を伸ばしていくのである。退院していく患者さんの茶話会でのスピーチに対して大原健士郎教授は、「症状の愚痴ばかり言ってないで、奥さん孝行・家族孝行をしてごらんよ。小言幸兵衛じゃあ嫌われるだけだよ」とアドバイスされ、健康人らしく、人の役に立つように行動するよう説いておられた。

 小言幸兵衛とは落語の演目である。麻布の家主、幸兵衛は長屋を回っては小言を言うのが常であった。犬や猫にまで小言を垂れる。そのため小言幸兵衛とあだ名されている。時々、新たに家を借りたいという人が訪ねてくるが、あれこれ難癖をつけて、その人を怒らせて帰してしまうのが落語のテーマとなっている。その難癖ときたら、認知療法で言うところの「結論の飛躍」「拡大解釈」「感情的決めつけ」「レッテル貼り」などの好例(?)である。

 神経質は他人に厳しいが自分にも厳しいし、慎重であるから、そのままでは小言幸兵衛にはならない。しかし、症状中心の生活になって、うまくいかないのを病気や他人のせいにして愚痴ばかりこぼしていたら小言幸兵衛さんになってしまうから注意が必要である。

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