神経質礼賛 1855.一喜一憂しない
神経質人間は、自分の状態を気にしやすく、評価点を付けたがる。よりよく生きたいという「生の欲望」が人一倍強いので、いわゆる点取り虫になりやすい。そして、その点数に一喜一憂しがちである。特に症状に悩んでいる人は、「昨日は症状が強かった。今日はどうだろうか。明日はよくなるだろうか」「これだけ作業したのだからよくなるはずだ」あるいは「これだけ頑張っているのに何もよくならない」などと考えがちである。これをやっているとますます注意が自分の方向に向いて、症状の呪縛から抜け出せなくなる。症状を相手にしないのが森田療法の骨子である。だから、私は患者さんに日記のコメントに「症状の有無に一喜一憂しないこと」「行動できればそれでよし」とよく書いていた。森田先生は次のように言っておられる。
ここの修養法では、苦楽とか・善悪・正邪とかいう標準を、一切立てる事をしない。頭痛や不眠でも、そのままじっと持ちこたえるだけで、苦しいとか困るとか、口外する事を禁じる。まもなくこれが解消された時にも、さらにこれを喜んだり安心したりする事を決していわせない。喜べば必ずその反動で再発します。赤面恐怖でも、気になるとか苦しいとかいう事をいわせないと同様に、これがよくなって「外を歩いても平気になった」「人前で楽になった」とか喜んではいけないのです。
それらの事は、みな起こるべきに起こり、かくあるべきにあるところの事実であるというまでの事で、腹がへれば苦しく、満腹すれば落着くというように当然の事である。これを日常百般の事に一つ一つ苦楽善悪で評価していっては、とうてい、仕事も間に合う事ではない。能率のあがるはずがない。 (白揚社:森田正馬全集第5巻 p.597)
症状があろうがなかろうが、淡々とやらなければならないことをこなしていく生活習慣が身に付けば、いつしか症状はあってもないも同然になっているのである。
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