神経質礼賛 1865.もし治ったら
今まで、神経症は治そうとするのを忘れた時に治っている、とたびたび書いている。何を馬鹿げたことを、と思われる方もおられるだろうが、実際そうなのである。人前で緊張してドキドキするのは当たり前であるし、鍵をかけ忘れていないかスイッチを切り忘れていないか心配になるのも普通のことであるし、どんなに健康な人でもたまにはは眠れなかったり頭痛がしたり腹の調子が悪かったりすることはあるはずだ。そうしたことを過度に病的であるとして、完全になくそうとする、「不可能の努力」をしているうちに、ますます注意が自分の方に向いて「症状」を固着させてしまうのが神経症である。その不可能の努力を日常生活の中の建設的なことに向けていくのが森田療法だ。事実をそのまま受け止め、「症状」はあろうがなかろうが、その場でやるべきことをやっていく習慣が付けば、自分自身が作り出していた「症状」は気が付けば自然と消退しているのである。森田先生は次のように言っておられる。
治ったら、気がハッキリするとか、気分が悪いのがなくなるとかいう間は決して治らぬ。気分は悪くとも、どうでもよいという風になると治るのである。
不眠でも、赤面恐怖でも、なんでもこれを治そうと思う間は、どうしても治らぬ。治す事を断念し、治す事を忘れたら治る。これを私は「思想の矛盾」として、説明してある事は、皆さんの御承知の通りです。例えば、岸辺の景色が(思想・観念という)水面に影を映すようなもので、(観念の)水がなければ、影という余計なものがなくて、ただ景色そのままの事実があるのみであります。観念があるために余計な邪魔になるのである。(白揚社:森田正馬全集第5巻p.318)
そして、よりよく生きたい、という「生の欲望」に沿って行動していけば、気がつくと人並以上に力を発揮しているのである。
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