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2021年6月27日 (日)

神経質礼賛 1880.普通の人・上等の人・下等の人

 森田正馬先生の診療所では、入院患者さんたちは作業をしながら外来患者さんの診察を聴くことが許されていた。プライバシーを重視する現代ではありえないことだが、同じ神経症に悩んでいる人の心の中に起きているからくりを知ることができ、共感し、さらに自己洞察につながり、絶大な治療効果があったものと思われる。疾病恐怖で入院していた46歳の人の日記の記録からその様子を紹介しよう。

第四十三日 新患者の御診察があつた。「無理に奮発して、元氣を出して・勉強しやうとするのは、却て苦しくて・勉強が出来ない。試験があるから・下調べをしなければならぬから、仕方なしに勉強する。前者は、自分の感情を、強いて抑へつけようとする處に、無理があり、虚勢と付け焼刃とがある。後者は、厭なまゝで、境遇に柔順になるので、素直な心持である。似て居るやうで、全く反対の事実である」と言はれた。此間の消息は、ハツキリ解るやうになつた。(白揚社:森田正馬全集 第4巻 p.91)

第四十五日 外来患者の診察を聴く。「人が自分を除け者にする。自分が変に思はれないかと絶えず氣になる」といふのに対して、先生は、「このやうな人の心持ちには、色々あるが、便宜のため、大体三種に分ける。第一種の人は、人から変に思はれると、単にそれを氣にして、直ちに忘れる人。之が普通の人。第二種の人は、何か自分に変な所があるのではなからうかと、自分を反省して、之を矯正する工夫を凝らす人。之が上等の人。第三種は、変だと思はれるのは苦しいから、さう思はないやうに、氣を紛らせたり・大胆になり・達観しようとするやうな人、之が下等の人である。君はどの種類に属しますかといふ。患者曰く、第三種ですと。先生曰く、それは不可能を可能にせんと・もがく人で、そこに強迫観念が生ずる。自分の素質を肯定して、よく反省し、第二種の心掛けになれば、絶へず向上して、苦悩はなくなるのである」といふやうなお話があつた。(白揚社:森田正馬全集 第4巻 p.93)

 誰でも気になる時には気になるけれども、時間とともに忘れていく。神経質の場合は簡単には忘れない。神経質という優れた素質を自己の発展向上に活用して上等の人となるか、素質を無駄遣いして神経症に苦しむ人になるかは、本人の行動次第だ。必要とあれば、嫌なことは嫌なままに仕方なしにやっていけば自然に上等の人となっていくのである。

2021年6月24日 (木)

神経質礼賛 1879.ヤモリ

 2カ月ほど前、玄関ドアの下に白いトカゲ状の形をした体長2cm位の干からびた遺骸があった。たまたまドアが開いた時に入り込もうとして挟まれてしまったのだろうか。それともドアの下側の隙間から入り込もうとして要領が悪くて動きが取れなくなってしまったのだろうか。先週、今度は1階納戸の網戸の外側から張り付いている体長7~8cm位のものを見た。どうやらヤモリらしい。じっとしていて動かない。日中はずっと同じ所にいて、夜になったらいなくなっていた。ヤモリは夜行性だということだ。この前の日曜日には玄関窓の網戸の外側に張り付いていた。前回見たのと同じくらいの大きさだ。同一個体の可能性が高い。午前中に見かけてからほとんど動かない。ずっと居座られるのも気味が悪いので、網戸を指でピンと弾くと少し移動した。夕方になってもまだいる。しかし、どうも変だ。よく見ると、今度は網戸の内側に張り付いているではないか。いつの間に内側に回り込んだのだろうか。狭い所に入り込むのは得意なようだ。そのまま家の中に入られるのは嫌なので、あわてて窓を閉め、家の外に出て、網戸を開けたり閉めたりすると、すたすたと家の外壁に移動して行った。

 ヤモリは害虫を食べて、人には悪さをしないので、古くから「家守」とされている。ペットとして飼う人もいるそうだ。とはいえむやみに増殖されても困る。寿命は10年位らしく、これからも何度も遭遇することになりそうだ。ヤモリは臆病な性格だと言われる。だから神経質の家にやって来たのだろうか、などとつまらないことを考える。

2021年6月20日 (日)

神経質礼賛 1878.自分だけが苦しい

 神経症には実に多彩な症状がある。対人恐怖、不眠、強迫観念、不安発作、頭痛・腹痛・動悸など種々の身体症状、と多岐にわたる。そしてそれらの複数の症状を持つ人もいる。一見異なるように見えるそうした症状の根底には不安がある点が共通している。そして、そうした症状に悩む人たちの共通点として、「自分だけが苦しい」と信じていることである。森田先生は次のように言っておられる。

 神経質の苦痛も、自分に比べて人を推し計るとよいけれども、とくに神経質は、自分と人との間に隔てをおいて、自分は勉強すると苦しいけれども、人は朗らかに愉快に勉強しているとか、人前で恥かしいのは自分ばかりで、人はみな気楽でうらやましいとかいう風に、人に対して全く同情というものがない。会の世話のような事でも、人には無理な苦しい事をさせても、自分ばかりは楽にしようとするような人情になるものである。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.697)

 森田療法で入院している人たちの日記を見ていると、症状は書かないようにと注意していても、最初のうちは症状の愚痴が出て、他の人たちは何でもないのに自分だけが重症で辛い、といった表現がみられる。しかし、いろいろな作業を他の人と一緒にやり、サブリーダーやリーダーといったまとめ役をやるようになって、周囲に目が行くようになると、他の人たちも大変なんだなあ、苦しみながらもがんばっているんだなあ、ということに気付くようになる。「自分だけが苦しい」という差別観から脱却して平等観で見ることができるようになってくる(631話、1312話)。そうなってくれば大きな前進である。生活の発見会で集談会の幹事や世話役をされている方々もそうした体験をしておられることと思う。後は症状はありながらも苦しいままに行動していくだけである。やがて結果はついてくる。そして苦楽共存(200話・1475話)ということにもなってくるのである。

2021年6月19日 (土)

神経質礼賛 1877.2回目ワクチン接種の副反応

 私自身、新型コロナワクチンの接種を受けて(1867話)、4週後に2回目の接種を受けた。1回目では翌日に筋肉痛、2日後に軽い頭痛と倦怠感が出て、葛根湯を飲んで対応。3日後には収まった。他の職員の話を聞いてみると、やはり副反応は筋肉痛と倦怠感が多い。腕が上がらなくなったという人も何人かいた。発熱した人もいた。2回目の接種も当日は何ともなく、翌日に注射を打った側の上腕の筋肉痛が出現。1回目よりやや強い。それと少し倦怠感も出た。その日は公休日だったので、無理はせず、自宅近くの用事を済ませる程度で静かにしていた。2日後は筋肉痛のピークだった。日常生活には支障がないものの左上腕に軽く触れただけで痛みを感じた。倦怠感はそれほどなく、頭痛も出なかった。毎日早めに寝て休養を取っていたおかげだろうか。とはいえ、最近仕事が多くて処理しきれないので、1本早い始発電車に乗って出勤し、病院には7時5分位には着いて、病棟を回っている。昨日の帰りに駅まで車で送ってくれる人がいつもの人ではない。ワクチンを打ってもらった後に38.5℃の発熱でダウンして代わりの人だった。その人も「私も38.2℃の熱が出て、アセトアミノフェンを飲んだけど効かなかったです」と言う。どちらも若い人だから副反応が強く出たのだろうか。職員の間では、「また来年打たれるのは嫌だなあ」という声も聞かれる。

 来週からは、高齢でない入院患者さんたちの接種、職員の家族の希望者の接種で「打ち手」をこなさなくてはならない。直接新型コロナ感染症患者を扱っている医療機関の大変さはもちろんだが、直接関与していない医療機関の医療従事者たちも普段の仕事に上乗せでワクチン接種や感染防御対策に追われている。緊張の糸が途切れた時のメンタルが心配である。

2021年6月17日 (木)

神経質礼賛 1876.IE(インターネットエクスプローラー)サポート終了

 長年、WindowsパソコンにはブラウザとしてIEがセットで付いてきた。他のブラウザを自分で入れて使うことは可能ではあるけれども、IEをそのまま使い続けてきた人は少なくないだろう。私もその一人である。広く使われているソフトだからハッカーのターゲットにされやすいという問題があり、対策をほどこした更新ソフトが配布されてきた。そのIEのサポートが終了になるという。となると、そのまま使い続けるのは危険である。今年になってから、いろいろなサイトをIEで開くと、ブラウザをIEから後継のEdgeあるいはGoogle chromeに切り替えるように、というメッセージが出てくるようになった。Windowsの切り替えと同様、マイクロソフト社はいつものことながら、ユーザーへの配慮が欠如している。そういう神経質が足りない連中がソフト開発をしているから、後から後からバグ(ソフトの欠陥)が発覚したり、脆弱なところをハッカーに狙われたりすえるのだ、と噛み付きたくもなる。

 ブラウザを切り替えても慣れの問題とはよく言われる。設定やパスワードの再入力とか面倒なのは仕方ないにせよ、困るのは今までできたことができなくなる点だ。当ブログはココログを利用している。今まではWordで文章を作っておき、それをココログの記事作成画面にコピペして入力してきた。ところが、IEからEdgeに替えたら、コピペができなくなってしまったのだ。「お使いのブラウザではクリップボード機能を利用することができません」と表示されてしまう。いろいろ試しているうちに、記事作成画面の設定を「リッチテキスト」から「通常エディタ」に切り替えたところ、従来通りWord文書からのコピペができるようになった。やれやれ、一件落着、と思いきや、段落替えの際、改行して先頭1文字を空白の表示ができず、ブログ画面では詰まって表示されてしまう。Shift+EnterやAlt+Enterを使ってもダメである。やむなく、またIEを使って入れ直しだ。解決には時間がかかりそうだ。

2021年6月13日 (日)

神経質礼賛 1875.精神科あるある?

 形外会の記録には森田正馬先生のお弟子さんたちの発言も収録されている。森田先生最後の直弟子で秀才タイプの竹山恒寿先生が自分の失敗談を語る場面がある。

竹山先生 僕などには勿論、失敗談はいくらでもありますが、大学の病院で、その日は非常に忙しかったのであわてていましたけども、付添人を患者と間違えてしまった事があります。
 自分のまえには、患者の座る椅子と、その脇に、付添人の座る椅子とが備えてあります。そのとき、付添人が患者の座る椅子についていましたので、私はツイなんの気なしに、それを患者のつもりで、いろいろ問診をし、そのうえ御苦労様にも脈まで取りにかかりかしたが、話の具合でこれは変だと気が付いた時は、よほどきまりの悪いものでした。(白揚社:森田正馬全集 第5巻p.622)

 連れてこられた患者さんがほとんど話をしないということは精神科ではしばしばあることだ。私にも似たような失敗はある。だから、初診の場合や担当医が不在で代診する場合には、必ず、「〇〇さんですね」「〇〇さんのお母様ですか」などと本人と付添人の確認をしてから診察に入ることにしている。これが病棟だと困ったことに呼び出した患者さんではない人が「はーい」と返事して勝手に診察室に入って来ることがあるから注意が必要である。外来で順番の患者さんを何度も呼んでも入って来ないことがある。トイレに入っているとか勝手に外出してしまうといった場合である。また、強迫の人は何をするにも時間がかかって、入室まで非常に時間がかかることがある。診なければならない患者さんが多い日には気がもめる。また、連れてこられた「患者」さんがまともで、付添の家族がみな精神不安定でおかしい、ということもある。これらは「精神科あるある」かも知れない。

 もう30年近く前のことだが、私が大学病院で研修していた時、妄想のため、家中の物を壊したり傷つけたりしているという入院患者さんの治療を病棟医長の先生から任された。しかし、御本人には少しもおかしなところはない。そこで、奥さんに本人が壊したり傷つけたりした所を確認したいので写真を撮って来るようにお願いした。妻が持って来た数十枚の写真には黒マジックで「ここをやってある」「ここもやってある」と書き込まれているが、どこも何ともなっていない。結局、奥さんが妄想性障害であることが判明し、本人には退院していただいた。これなど、「あるある」では済まされない。

2021年6月10日 (木)

神経質礼賛 1874.鏡が割れる

 病院からの帰りは薬剤師さんとともに駅まで車で送ってもらっている。昨日はいつもならすぐに来る薬剤師さんがなかなか現れない。帰り際に急な調剤依頼があって遅れるのかな、と思っていたら、スマホで話しながら急ぎ足でやって来た。「すみません、ロッカーを開けたら、付いている鏡が落ちて割れちゃったんですよ。本当にびっくりしちゃって・・・。家で何か悪いことでもあったんじゃないかって気になって思わず電話したんですよ」とのこと。いつものようにロッカーを開けたらいきなり鏡が取れて落ちたのでは、びっくりしたのも無理はない。幸いにして何も悪いことは起きていなかったそうである。

 鏡が割れると縁起が悪い、という考え方は日本ばかりでなく英語圏の国々でもあるらしい。「三種の神器」の一つが鏡であり、神聖であるとか霊力を持っているというように、昔は考えられていた。西洋でも魔術に使われる重要なアイテムである。しかし、百円ショップに鏡が大量に並んでいる現代では、そこまで思い込むことはない。縁起を心配するよりも、割れた破片でケガをしないように注意深く処理することの方が優先だ。

 黒猫が前をよぎると縁起が悪い、夜の蜘蛛を見ると縁起が悪いとかいう話もあるが、猫はその辺をウロウロしているのだし、蜘蛛だってどこにでもいるのだから、どうにもならない。鏡だって古くなれば傷んできたり、衝撃がかかる所にある鏡だったら落ちて割れたりすることだってあるだろう。最近は減ってきたが、神経症の中には縁起恐怖というものがあって、縁起を気にするあまり、日常生活に支障をきたしてしまうこともある。私たちの生活では、良いことも起きれば、悪いことも起きる。縁起が悪いと思い込んでいると、良いことは見逃して、悪いことだけが記憶に焼き付く。占いと同じだ。ただそれだけのことである。縁起が良かろうが悪かろうが、気分はそのままに、できることをやっていくだけである。

2021年6月 6日 (日)

神経質礼賛 1873.外相整いて内相自ずから熟す(3)

 森田療法でよく使われる言葉に「外相整いて内相自ずから熟す」(86・87話)がある。患者さんの日記指導でも時々コメントとして書くことがある。健康人らしくすれば健康になれる、という意味である。神経症に苦しむ人は、まず、症状の苦しみから逃れたいと強く願っている。しかし、心をいじろうとはからえば、ますます症状に注意が向かって、悪化させるばかりである。そこで、症状はそのままにしておき、まずは外相を整えて健康人らしくしていく。そうすると、気分は後からついてきて、いつしか本物の健康人になっているというわけである。森田療法に精通した精神科医で作家の帚木蓬生さんも著書『生きる力 森田正馬の15の提言』(951話)の中でこの言葉を挙げている。

 しかし、森田正馬先生がこの言葉を言われた場面は意外にもなかなか見当たらない。形外会の場で、受験勉強で徒然草の「外証背(そ)むかざれば、内証熟す」という言葉を知ったと発言した患者さんに対して、その場で考えて次のようにコメントしておられる。

 外証というのは、外に表われた証拠、すなわち事実または実行であり、内証とは、心の内部における感想の精神的事実であろうと思われる。それで、もし外証すなわち自分の行動が正しくて間違いがなければ、しだいしだいに、それに相当したところの内証すなわち感じが成育してくる事かと思う。「南無阿弥陀仏」と、敬虔の態度をもって平常唱名していれば、月日を経る間に、しだいに心の内に感謝と他力の信仰との心が起こってくる。顔に、ニコニコと表情をして、申し訳にでもお世辞をいっていると、ツイツイそのうちに、人に対する好意と平和の情とが起こってくる。一座が笑っている時に、自分もツイつり込まれて笑っているうちに、いつとはなしに真からおかしくなる。ジェームスは、「悲しいために泣くのではない。泣くから悲しいのである」といったが、泣くのが外証で、悲しいのが心の内の内証であるかと思う。 (白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.560-561)

 おそらく森田先生御自身よりもお弟子さんたちが使って広まった言葉だろうと思う。私の師の大原健士郎教授も講話の中でよく使っておられたから、さらにその師であった高良武久先生から伝わったのではないかと推測する。それにしても、徒然草・第157段の終わりの部分の言葉「外相もし背かざれば、内証必ず熟す」を原典とした実にいい言葉だと思う。

2021年6月 5日 (土)

神経質礼賛 1872.名探偵ポワロ

 最近、土曜日の夕方、NHKのBSプレミアムでアガサ・クリスティ原作「名探偵ポワロ」のハイビジョンリマスター版が放送されているので、ビデオに録っておき、仕事から帰ってから見ている。ポワロを演じる俳優スージェは原作を徹底的に研究したとのことで、体型から歩き方や仕草まで原作通りのポワロに見事になりきっている。私が一番好きな探偵シャーロック・ホームズ(485話)とはタイプが全く異なる。並外れた観察眼と「灰色の脳細胞」による鋭い推理力はホームズ同様であるが、美食家でお洒落で社交的であり、体型は肥満型。ステッキを片手に歩く姿はちょっとユーモラスでもある。精神科の教科書に出てくるクレッチマーの循環気質(躁鬱気質)にハマりそうである。やせ型で生真面な相棒のヘイステイングズ大尉は好対照だ。こういう副主人公がいると主人公が際立って見える。ホームズとワトスン博士と立場を逆にしたような関係である。おおらかな循環気質の人と神経質は相性が良く(270話)、名コンビを形成しやすい。テーマ曲もヴァイオリン演奏の緊迫感のあるホームズのものとは対照的にサックス演奏のちょっとトボケた感じであり、キャラクターにぴったり合っている。

 原作者のクリスティは母親の方針で普通の学校教育を受けることを許されなかった。そのため同年代の友人はいなかった。第一次世界大戦時には薬剤師の補助をして働き、薬の知識を得て、毒物にも詳しかった。数々の作品を出版社に送って不採用になりながらもめげずに書き続け、ついに作家デビューを果たす。そしてポワロやミス・マープルを主人公とした作品が人気を呼び、ミステリーの女王と呼ばれるようになる。最初の夫は浮気をしていることが発覚。クリスティ自身が謎の失踪事件を起こしてマスコミに騒がれたという。離婚後はオリエント急行で中東を一人旅して、ずっと年下の考古学者と知り合い再婚する。そうした経験もすべて小説の中に生かされている。困難の中を自分の力で道を切り開いてきた人のように思う。

2021年6月 3日 (木)

神経質礼賛 1871.筋肉注射の方法(2)

 先日の病院職員の予防接種の際には、私の役目は問診と万一の場合への待機で、実際に注射を打つのは看護師さんだった。今週から高齢の入院患者さんへの接種が始まった。今度は医師が問診して注射を打つ。以前書いたように(1843話)、インフルエンザワクチンの注射は皮下注射だったので、やり方がだいぶ違う。精神科医が筋肉注射をするのは、興奮が著しいとか拒薬していて内服不能の患者さんに対してであって、部位は安全性が高い臀部であり、私は今まで肩に注射を打ったことは一度もない。やはり心配なので、公的なサイトで公開している新型コロナワクチン接種の注射手技の動画を繰り返し見て確認する。

 肩に筋肉注射する場合の部位は、従来は肩峰から3横指下というように言われてきた。しかし、動画を見ると、それよりも3-4cm下、前腋窩と後腋窩を結んだ線と肩峰から下に引いた線の交点を目標に打っている。外国でのワクチン接種のニュース画像でよく見る部位である。また、血液の逆流かないか軽く引いてから注入するのが伝統的だけれども、それはかえって良くないとのことだ。

 昨日は精神科救急の当直勤務。未明に新患の診察依頼があり、入院となった。日中と違って、スタッフが少ないし、病棟に入れる前にコロナ検査もしなくてはならない。例の青い使い捨てガウンやキャップやフェースガードなどを身に着けて鼻腔内の液を採取する。検査キットで結果が出るまでには20分ほど要する。処方した少しばかりの薬を出すのにも、事務当直者と二人で薬局に入って薬を探し出し、いろいろと時間がかかる。患者さんが病棟に入った後も種々のオーダー入力や書類作成に追われる。ようやく電子カルテ上の仮名「救急桜」さんの入力が終わったのは午前3時過ぎだった。仮眠を取ってから朝6時過ぎに病棟を巡回。電子カルテに回診記録を入れる必要のある患者さんたちがいるためだ。電子カルテになってからというもの、医師の仕事量は増えていて、いつも目はショボショボ。常時、電子カルテに追われている感じだ。病院勤務はそろそろ潮時かなあ、と思うこの頃だ。

 さて、午後からはいよいよワクチン接種。ワクチンを希釈して注射器に詰めるまでは薬剤師さんと看護師さんがやってくれてある。注射針の長さを確認しておく。約30㎜と長い。痩せた人だと上腕骨に達する恐れがあるから注意しなくては。患者さんの問診をしていると、精神科ならではの答えが返ってくる。「私は妊娠してるんですよ」と真顔で言う70代女性。もちろん妄想である。60代男性はこれだけ暑くなっても服を5枚も重ね着している。支離滅裂な言動を続けてなかなか服を脱いでもらえず注射させてもらうまで一苦労。そういう人ばかりではなく、協力してくれる患者さんも多いから助かる。無事に打ち終わり、ほっとする。

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