神経質礼賛 1880.普通の人・上等の人・下等の人
森田正馬先生の診療所では、入院患者さんたちは作業をしながら外来患者さんの診察を聴くことが許されていた。プライバシーを重視する現代ではありえないことだが、同じ神経症に悩んでいる人の心の中に起きているからくりを知ることができ、共感し、さらに自己洞察につながり、絶大な治療効果があったものと思われる。疾病恐怖で入院していた46歳の人の日記の記録からその様子を紹介しよう。
第四十三日 新患者の御診察があつた。「無理に奮発して、元氣を出して・勉強しやうとするのは、却て苦しくて・勉強が出来ない。試験があるから・下調べをしなければならぬから、仕方なしに勉強する。前者は、自分の感情を、強いて抑へつけようとする處に、無理があり、虚勢と付け焼刃とがある。後者は、厭なまゝで、境遇に柔順になるので、素直な心持である。似て居るやうで、全く反対の事実である」と言はれた。此間の消息は、ハツキリ解るやうになつた。(白揚社:森田正馬全集 第4巻 p.91)
第四十五日 外来患者の診察を聴く。「人が自分を除け者にする。自分が変に思はれないかと絶えず氣になる」といふのに対して、先生は、「このやうな人の心持ちには、色々あるが、便宜のため、大体三種に分ける。第一種の人は、人から変に思はれると、単にそれを氣にして、直ちに忘れる人。之が普通の人。第二種の人は、何か自分に変な所があるのではなからうかと、自分を反省して、之を矯正する工夫を凝らす人。之が上等の人。第三種は、変だと思はれるのは苦しいから、さう思はないやうに、氣を紛らせたり・大胆になり・達観しようとするやうな人、之が下等の人である。君はどの種類に属しますかといふ。患者曰く、第三種ですと。先生曰く、それは不可能を可能にせんと・もがく人で、そこに強迫観念が生ずる。自分の素質を肯定して、よく反省し、第二種の心掛けになれば、絶へず向上して、苦悩はなくなるのである」といふやうなお話があつた。(白揚社:森田正馬全集 第4巻 p.93)
誰でも気になる時には気になるけれども、時間とともに忘れていく。神経質の場合は簡単には忘れない。神経質という優れた素質を自己の発展向上に活用して上等の人となるか、素質を無駄遣いして神経症に苦しむ人になるかは、本人の行動次第だ。必要とあれば、嫌なことは嫌なままに仕方なしにやっていけば自然に上等の人となっていくのである。
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