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2021年8月26日 (木)

神経質礼賛 1899.楽譜がない曲

 個人的には今回のオリンピックはボイコット。競技のTV中継は見なかった。大国の大統領以上に尊大で傲慢なIOC会長の態度や行動は目に余るものがある。同じ名前の作曲家のイメージを悪くしてしまいそうだ。それでも、J.S.バッハの曲は好きで弾き続けている。

 最近いただいたコメントに、ピアノ発表会に向けてバッハのトッカータBWV914を練習中だとあったのを読んで、はてどんな曲だったかとYouTubeで聴いてみる。玄人好みの曲だけれども、後半によく知っている旋律が出て来てハッとした。

 高校3年生の文化祭で弾いたブランデンブルク協奏曲第3番。3つの楽章からなるが、第2楽章は楽譜らしい楽譜がない。団子のような全音符の和音が2つ並ぶだけだ。その2つの和音の間に通常はチェンバロの即興演奏が行われる。高校の弦楽合奏部ではチェンバロなしでの演奏だったから2つの和音を弾くだけの第2楽章ではつまらない。たまたまFM放送からカセットテープに録音した演奏のチェンバロソロを聴いて、私は本番でそれを無伴奏ヴァイオリンソナタ風にアレンジして弾いてしまった。その旋律がまさにBWV914の中にあったのだと驚くとともに懐かしくも恥かしい思い出が蘇った。小心者で取越苦労ばかりしているくせに本当は負けず嫌い。自分は筋金入りの神経質だと改めて思う。

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コメント

私も同じくオリンピックもパラリンピックもボイコット。見ていません。TVで、コロナに罹った人が自宅で死に至る苦しみにあえいでるのを見ると、オリンピックに感動どころではありません。

N響のコンサートに、迷いましたが、行ってきました。どれだけ効果があるかわからないけど、フェイスシールドもしちゃいました。私だけでしたが、じろじろ見られないでよかった。今後、コンサートに行けなくなるかもしれないと心配です。新たにチケット購入はしないでおこうと思います。せっかく、こんな地方にもいろいろな楽団や音楽家が来るようになったのに。

夏子 様

 せっかくコンサートが再開されるようになったところに第5波の感染爆発は本当に残念です。年内のコンサート開催は厳しそうです。マスク+フェイスシールド、さすがは念には念を入れ、の神経質ですね。

四分休符先生
 
 無事に発表会を終える事が出来ました。
 300人ホール、10部に分けての総入れ替え制。おしゃべり無し、消毒、演奏。無観客と言っても良い、私の部は生徒6人のみ。
 師の講評。風格あるバッハでした、是非レパートリーとして下さい、でした。バッハと風格...そうなのですか...兎も角有り難い感想を頂いた次第です。華やかなリスト、ショパンが並ぶ中、地味なバッハでした。

 この日に当たって私の日々の呪文は「ホロヴィッツじゃあるまいし、私にパニックもなかろう」でした。しかも、会場までは車運転。渋滞、信号待ちはパニックが起こりそうで私は車運転ダメなのです。結論を言えば、車運転に関しても演奏に関してもパニックは起こりませんでした。半世紀近く私を悩ませ、人生を狂わせたパニック障害はどこへ行った?私の今までの人生は何だったの?と思いながら信号待ちの車でした。

 当日の朝はいつもと同じ。4時には朝食。紅茶2杯は至福の時。排便、よし。子供の頃からの便秘症は私を不安にさせる。5時半には坐禅。ピアノの練習は勿論。付け焼き刃という言葉が頭をよぎる。昼食もしっかり頂く。昼寝もする。いつもと変わりなし。淡々と時間は過ぎていったのでした。夕食だけは摂りませんでした。早めに着いた会場にて。スタインウェイ・グランドって、こういう音がするんだ、とちょっと意外に思った...

 実は前日までの1ヶ月間は普通ではない日々だったのです。家人の前嫁。10年没交渉でした。突然のように「病気になりました、金銭的精神的援助を願います」メール。今嫁の私はショックでした。ですが、翌日には回復。全面的援助で行きましょう、と家人の背中を押す。逆行するように家人は眠れない、自粛生活による運動不足、アルコール依存とみるみる弱っていきました。物品援助は私の役目。影武者で、との家人との約束の下。  歩くのもやっとという豹変のヨレヨレ家人を24日、前嫁の入院付き添いに送り出し、25日術前説明会、26日術日に送り出しました。私は待機。私の出番は無い、と解っていましたが、いつでもバイク飛ばせるようにしていました。前嫁の手術は順調としても家人がヨレヨレです。約9時間。取り敢えず終了した、と連絡が入り、ホッとした、その夜。うれしさのあまりアルコールと話が途切れない家人。 そして迎えた27日だったのです。
北里大学病院は研究機関でもありますので学会資料とさせて頂きたい書類にサインした、と家人は前夫として。 予後10日間合併症が起こりさえしなければ、大丈夫。
 28日は何もかもが無事終わった曜日でした。道元忌。独り、いつものように坐禅堂で道元禅、坐りました。

 このような経過を辿った発表会でした。
 四分休符先生、次はスカルラッティにしました。本当はクライスレリアーナの一曲といきたいのですが、まだまだバッハ周辺、そしてニ短調。ニ短調でなくても短調を。そして師は皆さんへ、今回の発表会を鑑みてこれからはエチュードに力をいれます、という一言付きでした。
 報告まで。

 でも、四分休符先生やはりヘンです。私はなんでいままでパニック障害に人生を捧げてきたのでしょう。治癒とは思えません。やはり予期不安に襲われる事も無い事は無いのです。殆ど半径15分の生活圏。昼間の車の運転は出来る?バスに乗れる?電車は?と、とても奇妙な気分です。

yukimiya 様

 何とも大変な1か月でしたね。そんな中でいろいろな行動をされました。パートナーの関係で東奔西走され、普段通りの家事をし、苦手な車の運転もし、発表会に向けてピアノの練習をされ、いつもの座禅もされ、という超多忙の中、気はあせりながらも、その場その場で夢中になって必要な行動を取って行かれたわけです。これが「ものそのものになる」、そして、「あるがまま」「無所住心」の状態だったのではないでしょうか。もちろん、不安常住ですから、不安は消えては現れ消えては現れを繰り返します。予期不安も出るかもしれません。しかし、できないと思っていたことができたという「事実」があります。そして、パニック発作は死ぬほど苦しくても、それがために死ぬことはありません。これからも不安を相手にせず、不安なままに行動していくことを続けて行かれれば、いつか症状を忘れて、気が付いたら全治していた、という日が来ることと思います。

 「風格のあるバッハ」、すばらしい講評をいただけてよかったですね。

四分休符先生
 有難うございます。
 発表会以降も日々なにかと動いてはいるのですが...どうにもおかしいのです。私に全治という事はあり得ないと、機会はあるのに自然と神経症に戻そう、戻そうという力が働いて機会を捉えられない。治る、普通の生活が出来る私が想像できないのです。というか、半径15分の距離での生活が当たり前になっていてその外に出る私は私ではない、というどう表現したら適切なのか解らないのですが、兎も角終生私は神経症で終わる、でないと私の人生はヘン、収まりが付かないように思うのです。戸惑います。
 映画で長年刑務所で暮らしていた人が優良で晴れて刑務所を出たけれど生活の仕方が解らずに自死した、あれは「アルカトラズからの脱出」でしたでしょうか、「ショーシャンクの空に」でしたらでしょうか。なんとなくその、生き方が解らない、それが理解できるようです。

yukimiya 様

 森田正馬は「病気が治るに、最も必要な条件は、病気を治す事を忘れる事である」(全集第5巻 p.203)、 「つまり一口にいえば、「忘れる」という事が、治る事の原理であります」(全集第5巻 p.642)ということを繰り返し言っています。日常生活が回っていればそれで充分、治るとか治らないとかどうでもいいことなのではないでしょうか。現にyukimiya様は「ものそのものになる」ができていらっしゃるのですから。
 

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