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2021年10月31日 (日)

神経質礼賛 1920.優先度が高いことから実行

 外来患者さんで遅刻常習者がいる。強迫の人である。午前最後の11時台の予約を入れてあるが、いつも受付に現れるのは12時スレスレ。一昨日は12時半近かった。それも、あれこれ言い訳をして「遅刻します」と事務に電話を入れてくるのだ。ただでさえ診察には時間がかかる人で、こちらも次の予定が詰まっているから大迷惑である。確認行為や儀式を繰り返しているために動きが遅くなるのだ。今まで有名な森田療法家の治療を受けてきて、理屈だけはわかっているようだが行動が伴わないからよくならないのだ。確認や儀式が全部できなくてもせめて病院を受診する日だけでも決まった時間のバスや電車に乗ることを最優先にすればできるはずだがやらないのである。

 以前、「仲間とともに強迫神経症を生きる」という本をいただいている。森田療法の自助団体である「生活の発見会」の中に強迫症状に悩む人たちの生泉会というグループがある。鈴木知準診療所に入院体験のある人もいる。その人たちが自分なりに強迫への対処法の工夫を書いたものだ。強迫に加えて乗物恐怖のある人が「目的本位に考え、恐怖突入」と書いておられる文章がピッタリの処方箋である。確認したい・安心するための儀式をしたい、と思っても、それよりもっと優先すべきことを実現するために、後ろ髪を引かれる思いをしながらも不安を抱えながら振り向かずに前進するのが最善の対処法である(978,1208話)。

 誰しも、今していることを終えてから次の仕事に移りたいが、働いているとそうはいかない。外来診察中でも急ぎの外線電話が入ることはあるし、調剤薬局から疑義照会のFAXにはすぐに応じなければならない。「○○さんが急に呼吸停止しました!」と病棟から呼び出されたらすぐに病棟へすっ飛んでいく。よく考えれば、主治医ではないし外来担当ではない他の医師もいたはずだが、看護師さんがあわてて私を呼んでしまったのだった。優先度の高い仕事が割り込んでくるのは気持ちが悪いが、何とも仕方がない。とにかく「ものそのものになって」処理していくだけである。

2021年10月28日 (木)

神経質礼賛 1919.道路交通量調査

 幹線道路や繁華街の交差点などで、道路交通量調査をしているのをたまに見かける。私は学生時代に一度アルバイトをしたことがある。それは川崎駅近くの国道の陸橋の上から大型車と普通・小型車をカウントしていく仕事だった。三人一組で、一人が上り線をカウントし、もう一人が下り線をカウントし、一人は休憩。一時間毎にローテーションしていくもので、朝6時から夕方6時まで。冬の寒い時期だったように覚えている。体力いらずであり、我慢強い神経質にはうってつけのアルバイトだった。東京での最後の下宿は下落合にあったので、スケジュールの空きがあると近くの学徒援護会の掲示板で皿洗いなどの一日限りのアルバイトを見つけてやっていたものだ。交通量調査のアルバイトは当時12時間で6000円だったと記憶している。割の良い仕事なので、いつも希望者が多くてジャンケンで決めるのだが、なかなか当たらなくて一度しかできなかった。

 その道路交通量調査が変わるというニュースがあった。人間がカウントするのではなく、カメラの画像データをAIが自動判別して集計するようになるということだ。2人位の人が並んでカウンターのボタンを押しているあの光景はもう見られなくなる。

  AIの進歩はすさまじい。将棋ではAIの強さに人間はかなわなくなっているし、楽器演奏や作曲でもAIの表現能力はどんどん上がっている。美術系ではまだあまり聞かないが、参入してくるのではないか。これからは多くの仕事がAIやロボットに置き換わっていくだろう。そのうち、病院を受診するとAI搭載のアンドロイド医師とアンドロイド看護師のお世話になる日も遠くはないかもしれない。

2021年10月24日 (日)

神経質礼賛 1918.初一念とやりくりの選択

 『神経質でよかった』の著者・山野井房一郎さん(660・661・662話)は形外会の場で、よく自分の体験を語っておられた。森田先生から、退院して会社に行くように言われたが、対人恐怖や書痙は治っていないように思えて、その前日から動悸と強い不安に襲われた。苦しい思いをしながら電車に乗って出社して重役室のドアを開けた時は体が震えて、とても話はできないだろうと恐れていたら、重役の前に立った瞬間、パッと心が開けてスラスラと話ができ、問われるままに、森田先生の治療の話などをして、二十分ほどにわたって快談したという。山野井さんは「これが倉田(百三)先生のいわれる一枚になった状態かと思われます」と述べている。それに対して森田先生は次のように説明しておられる。

  その通りです。自分は何もいえない・とてもだめだと見切りをつけた時に、心の選択がなくなって、事に当たった時に、パッと心が開ける。禅に「初一念」という事がある。その純な心でパッと開けた心境が、その初一念でしょう。そして初一念はただそれきりならばよいけれども、「アアうまく話せた有難い。この次もあんな風にやればよい」という考えが起これば、既にそれが、やりくりの選択になって、再びまたうまく行かないようになる。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.730-731)

 私たち神経質人間はやる前から、ああなったらどうしよう、こうなったらどうしよう、と取越苦労しがちである。しかし、事が起これば、不安や緊張はあっても仕方なしに取り組むしかない。山野井さんの場合はもうダメだと諦め切って背水の陣で逃げずにぶつかっていき、結果として「ものそのものになる」ことができて全力を発揮することができたのだ。ああしたからうまくいったんだろう、今度もそうしよう、などと考えて皮算用したのではまた失敗する。ものそのものになろう・あるがままになろう、とやりくりしてもうまくいかない。理屈はさておき気分もそのままにして、スッと行動である。

2021年10月21日 (木)

神経質礼賛 1917.銀行の支店がなくなる!

 3カ月前に、長年利用してきた信託銀行の支店が廃止になるという通知が郵送されてきた。そのまま口座を継続することは可能だけれども、窓口での手続は東京まで行かなくてはならなくなる。それは困る。閉鎖直前の窓口は混雑するだろうから、郵送での解約手続を依頼した。私の口座は無事解約できて地方銀行の口座に振込まれた。問題は母親の口座である。新型コロナによる緊急事態宣言の最中であり、母親がいる施設では面会禁止になっていたから、郵便でのやり取りを繰り返した。使っていた銀行印がどれかわからない。宣言解除になってようやく面会できるようになったので、印鑑を持って行き、どれがその口座の印か母に見てもらった。郵貯で使っている印鑑と同じだと言うので、そこでそれを押して書類を送った。10日ほどして銀行から簡易書留が送られてきた。不在郵便を取りに行くのが息子であっても住所が異なると(同居していないと)受取には委任状が必要だとは知らなかった。実に厄介である。しかも、送られてきたのは印鑑が違っているという連絡である。印鑑は母の記憶違いだった。やり直しだ。神経質が奔走する。

 来月には私がよく利用している地方銀行の支店が閉店になる。これからはちょっと離れた支店へ手続に行かなくてはならない。マイナス金利政策が長く続き、金融機関は青息吐息。支店をどんどん統合・廃止して規模を縮小せざるを得なくなっている。追い詰められた社員たちが詐欺まがいの営業に手を染める実態もある。資本主義経済の原理に反するこの政策が銀行の存在を根本から否定するものであることは小中学生でもわかりそうなものだ。ごく短期間であればまだしも、こんなデタラメを続けていたらまともな金融機関は全滅してしまう。もしも日本資本主義の父と言われた渋沢栄一さんが現状を見たら絶句することだろう。

2021年10月17日 (日)

神経質礼賛  1916.セレナーデ

 以前勤務していた病院の行事でハイケンスのセレナーデという曲を演奏したことを書いた(1457話)。その時は、どうしても楽譜が手に入らなくて伴奏音源が作れず、仕方なく普通の演奏に合わせて弾いたのだった。最近、ネット上のペトルッチ楽譜図書館にその楽譜が公開されているのに気が付いた。今年新たに追加されたものだ。早速、伴奏譜をプリントアウトして打ち込んでいく。繰り返し部分が多いので部分複写が効いて意外と手間がかからなかった。ただし、主旋律は同じでも伴奏部分は微妙に変えてあったりするので、しっかり「確認」する必要がある。神経質の出番だ。休みの日に半日ほどで打ち込めた。作った音源をMP3プレーヤーに移し、スピーカーで鳴らして、それに合わせて弾いてみる。四分の二拍子の行進曲風で心がウキウキしてくるような曲である。戦時中はNHKラジオ番組「前線へ送る夕(ゆうべ)」のテーマ曲として流れていたそうだが、今はほとんど演奏される機会がなく、JRの寝台列車などで車内チャイム音に使われているということだ。旅行にはピッタリの曲だと思う。

 同様に、セミ・クラシックの名曲、ドリゴのセレナーデも今はあまり演奏されない。子供の頃、レコードの名曲集に入っていて聴いたことがある。ヴァイオリン・ピース(小品の楽譜)も売られていたが、今では手に入りにくくなっている。これもネット上に公開されたものから伴奏音源を作ってある。こちらは八分の三拍子のワルツ風でとてもロマンチックな曲である。こうした親しみやすいセレナーデがもっと演奏されるようになるといいなあと思う。

 セレナーデは小夜曲と訳され、特定の形式があるわけではなく、夜に恋人の家の外で楽器を弾きながら恋を歌うのが始まりだったらしい。モーツアルトの弦楽セレナーデ「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」だとそういう使い方もできそうだが、チャイコフスキーの弦楽セレナーデだと、王宮から王女様が現れそうな感じである。

2021年10月14日 (木)

神経質礼賛 1915.ムクドリの大群

 10月になっても最高気温が30℃に達する日があったが、昨日は薄い上着では肌寒い感じがした。仕事帰りに駅まで送ってもらうと、雨は上がっていて、駅前の木々の枝にはムクドリらしい鳥たちが止っている。ホームに上がり、いつものように25分ほど電車を待つ。暗くなり始めた空をぼんやり眺めていると、黒い点が集まって激しく動き始めた。駅前にいたムクドリたちが群れをなして飛び回り始めたのだろう。ざっと見てその数、軽く千羽は超えていそうだ。東へ西へと激しく動き回る。そのたびに輪が大きくなったり小さくなったりする。まるで大空に現れたモンスターのようだ。急旋回を繰り返していて、よく集団でまとまって動けるものだと感心する。これだけ多数で高速で飛び回っていたら、天敵の大きな鳥も体当たりされてダメージを受けそうだ。あるいは敵を寄せ付けないためのデモンストレーションなのかもしれない。
 何でもない平凡な毎日のようだけれども、ちょっと周囲に注意を向ければこんな観察もできるのである。

 かつては作物の害虫を食べてくれる益鳥として歓迎されていたムクドリは、今では駅前の街路樹や繁華街の電線に集まって、糞や羽を落として、鳴き声も相当なもので、すっかり嫌われ者になっている。各地でムクドリ追放作戦が行われている。スピーカーでムクドリが嫌う音を流して追い払う所が多く、中には鷹匠が鷹を飛ばせて追い払うというものもあった。浜松市では人がハンマーで街路樹を叩いて追い払うということをしていたらしい。人手がかかる上、効果は一時的である。昨年、強力なLED光を当てて追い払うという新兵器が登場し、より効果の高い光を研究中とのことだ。カラスのようにゴミを漁って散乱させるようなことはなく、食べ物は主に虫なのだから、駆除ではなく何とか共生できないものだろうかと思う。

2021年10月10日 (日)

神経質礼賛 1914.下手の考え休むに似たり

 私は高校生の時、数学で完全に落ちこぼれた。理系クラスでは1年・2年で数Ⅰから数Ⅲまでの3年分を全部済ませて3年の授業は入試問題を解くだけだったから、苦痛以外の何物でもなかった。当時の東大や京大の数学は難問中の難問が多く、4問のうち2問を正解できて、あと1問で部分点が取れれば十分とさえ言われていた。そんな問題をいくら考えても、糸口が全く見つからない。あれこれ考えても時間だけ空費していく。まさに「下手の考え休むに似たり」だなあ、と思った。ヘボ将棋ではいくら長考しても妙手が浮かぶはずもないのと同じだ。クラスメートに優秀なK君がいた。K君は決して「ガリ勉」タイプではなく、サッカー部で活躍していた人だ。しかし、数学教師でも解けない入試問題をスラスラ解いてしまうのだった。それに引き換え、自分は情けない、何て馬鹿なんだろう、といつも思っていた。K君はその後、東大医学部大学院の教授になり、脳神経の基礎研究で文化勲章を贈られている。K君が優秀過ぎただけで彼と比較して落ち込む必要はなかったのだ。花は紅、柳は緑。自分の特性を生かしてできることをやって行けばよいのだ。
 当時の私がしたことは、基本的な問題集を最初から順次解いて基礎の力を付けていくことだった。遠回りのようだけれども、これは確実な方法だったように思う。何とか並みの入試問題は解けるようになり、時には難問も解き方が見えるようになったのだった。

 「下手の考え休むに似たり」は強迫の人の考えにも言えるところだろう。車のギアをニュートラルにしたままアクセルを思い切り踏み込んでエンジンをフル回転させても車は1cmたりとも動かないようなもので、頭の中を空転させているだけである。森田正馬先生は、「非常に望みが多く、計画のみ大で、少しの遺憾もなく完全無欠にせんと心の中で細かく計算し、次第に細かくなり、幾らでも用件が増えて限りがない」と悩む人への手紙で次のように書いておられる。

 吾々は仕事が多く、計画が多く、それが精密なほど益々上等で、多々益々弁ずるのがよいのであります。
 それには、只一言、「必ず手を早く出し、実行しながら常に工夫する」事であります。坐つて考へては机上論になり、「下手の将棋は休むに似たり」になるのであります。例へば箱を作るならば、先づ何でもよし、手近の金鎚を出しながら、板の材料を考へるといふ風に、仕事の順序はアベコベでもよいのであります。 (白揚社:森田正馬全集第4巻 p.414)

 考えてばかりいても何もならない。少しでも実行に移していくことである。

2021年10月 7日 (木)

神経質礼賛 1913.LEDシーリングライトへの交換

 築20年になる我が家の洋間の照明はすべて同じ型の40W+32Wの丸形蛍光管シーリングライトに統一されている。そろそろLEDのものに交換したいと以前から思っていた。LEDだと消費電力が少ないし蛍光管を交換するような手間も省けるし調光もできて便利だ。しかし、リモコンが付いているのは良し悪しだ。本当にリモコンだらけになってしまう。リモコンの電池交換の手間も発生する。悩ましいところだ。

 3年前、子供が一人暮らしを始めてアパートに入居した時、照明器具がないというので、慌てて日立製LEDシーリングライトをプレゼントした。その子供も今度首都圏に引っ越して新居は照明付きだったので、そのライトが浮いてしまった。まだ長く使えそうでもったいないので、1階の楽器練習室のライトをそれに交換することにした。小さな脚立に乗って、古い器具を外す。2カ所木ネジで天井に止めてあって、ドライバーで外すのに力が必要だった。作業中にバランスを崩しそうになってちょっとヒヤッとする。私は元々運動神経が鈍く、さらに加齢で動きが悪くなっている。蛍光管付なので下に落としたら危険だ。安全第一。神経質に作業しなくては。LEDシーリングライトの取付は、購入時の取付説明書はなかったものの、何となくやり方がわかり、さほど苦労はいらなかった。

 リモコンには「あかりセレクト」というボタンがあってA「さわやか」蛍光灯、B「よみかき」図書館、C「だんらん」食卓、D「くつろぎ」電球 モードが選べる。譜面台の楽譜を見る時はBモードで明るくし、CDの音楽を聴く時はDモードで少し暗くしてみる。そして、掃除機をかける時はAモードで明るくしてみようか。

2021年10月 4日 (月)

神経質礼賛 1912.星座早見盤

 秋から冬にかけては星を見るのに絶好の季節である。ただ眺めてもどこにどのような星が出ているのかまるで見当が付かないので星座早見盤があると便利だ。日付と時刻に合わせて回転させれば、その時、見えるはずの星の位置がわかる。 それに載っていない明るい星が見えたら、それは金星・火星・木星・土星のいずれかである。長年使っていた学研「4年の科学7月号」付録の星座早見。18㎝四方のグリーンのプラスチック製で小さな方位磁石が付いていてとても気に入っていたけれども、星が描いてある紙の盤がもう茶色く変色して見にくくなってしまった。神経質ゆえ実に物持ちが良い。半世紀以上使えばもう十二分に元は取っている。その頃の科学の付録には望遠鏡もあった。対物・接眼レンズだけがついてきて、自分で用意した画用紙を黒く塗って丸めて作るもので、三脚はないからベランダの手摺に乗せたり横を窓枠に付けたりして、30倍の天体望遠鏡としてちゃんと機能した。主に月を見るのに使っていた。

 新たに購入した星座早見は25㎝四方と大きく、老眼にも見やすい。星は青地に白い蓄光インクで描かれている。見るエリアが楕円でなく、貝殻のような形をしている。これは、観察している場所の北緯によって見える範囲が異なるため、北緯25度・30度・35度・40度・45度の場合の視界が表示されているためである。今回購入したものは千円もしないものだ。簡単なものは百円ショップのダイソーにもあるらしい。星座を見る分には望遠鏡は不要である。天気の良い夜には星座早見を手にベランダから星空散歩も良い。スマホやパソコンの画面を見過ぎた眼のためにもなるだろう。

2021年10月 3日 (日)

神経質礼賛 1911.感染の消長は「ノリ」次第?

 先月末で緊急事態宣言は解除となった。仕事帰りに家に向かう途中、飲食店に明かりが灯っていたり、カップルたちが手をつないで歩いていたりするのを見ると、街に活気が戻ってきたと感じる。喜ばしい反面、さらなる第6波の発生も懸念される。

 今回、大方の予想に反して急速に第5波が収まってきたことに、医療関連サイトではその原因について様々な見解が示されている。ある感染症学者が人々の「ノリ」が感染の消長に大きな影響を与えた、とする意見を示していて、これが実情ではないかと思う。オリンピック期間中は緊急事態宣言を出しても効果はなく、感染・発症しても入院治療を受けられないまま自宅で死亡してしまう悲惨な事態が生じた。いくら外出は控えましょうと呼びかけたところで、オリンピックをやっているとなれば、聖火リレーのタレントを見に行ったり、家族連れでモニュメントの写真を撮りに行ったり、マラソンや競歩では沿道で密になって応援する、というような状況がみられ、感染者数は増大の一途を辿った。ワクチンが行き渡ってきたしオリンピックをやるくらいだから、感染なんて大したことはないさ、ちょっとくらい旅行に行ったって平気だろう、というような「ノリ」が感染拡大を加速させた。しかし、医療の危機的状況が連日報道されると、「これはヤバいぞ」という逆の「ノリ」が浸透した。若者たちはワクチン会場に殺到し、イベントも次々と中止となって、急速に感染者数は減少してきている。「ノリ」・・・人々の意識が感染の消長に大きな影響を与えているのは確からしい。

 感染防止のために経済活動をいつまでも止めておくことはできないだろう。「不安常住」ならぬ「コロナ常住」の中を私たちは生き抜いていかなくてはならない。ワクチン接種とロックダウンで一旦収まったイギリスでは再び感染者や死者が増大している。まだまだ波は発生するものと覚悟して、油断せずにビクビクハラハラを続けて行くことが大切だと思う。

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