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2021年11月28日 (日)

神経質礼賛 1930.ホキ

 現在の勤務先の病院食には週1回はホキが出る。それもどういうわけか私が当直する曜日の夕食に登場しやすい。スーパーの魚売場では馴染みのない魚だから、御存知の方は少ないだろう。見た目はタラのような白身魚である。それほどパサパサした感じはなく、比較的食べやすい。淡泊な味だから、バター焼き・マヨネーズ焼きや野菜あんかけやクリーム煮のような調理が合う。どんな魚なのか気になって調べてみる。ニュージーランドの深海で獲れる魚であり、黒っぽい細い体に大きなギョロ目が目立つ。冷凍の切身で輸入され、主として業務用に流通している。スケトウダラやメルルーサとともに白身魚フライとしてファーストフードや給食や弁当などでよく使われている素材だということだ。最近は乱獲のため漁獲量が減少し、アルゼンチンやチリで獲れる同族のデコラという魚がホキとして流通しているという話もある。

 前の病院の食事によく登場した、赤魚(アコウダイ)とシルバー(銀ヒラス)について書いたことがある(1624話)。庶民的なアジ、イワシ、サンマ、サバといった馴染みの近海魚が高価になってきて、こうした輸入物の深海魚の利用が増えているのだろう。C国やK国の漁船が日本近海で乱獲しているということも言われる。南半球の深海魚にしても乱獲されるとこの先どうなることか。これからは魚の養殖を増やしていく必要がありそうだ。また、漁の際に売物にならないということで廃棄されてしまう魚を有効利用していくことも大事だろう。そうした地場の魚を学校給食に使っていく工夫も報道されている。「物の性(しょう)を尽くす」(350話)であって、海からいただいた命は無駄なくいただくのがよい。食材高騰のおり、栄養士さんたちはメニュー作りや仕入れに苦労しておられることと思う。いつもありがたく、残さずにいただいている。

2021年11月25日 (木)

神経質礼賛 1929.氣持良くしやうとしてはいけない

 帰りの電車を待っていると、反対側下りホームに旗を持ったツアーコンダクターに引率された中高年の男女が20名ほど列をなして現れた。新型コロナが今のところ収まっていて、行楽ツアーが再開されつつある。駅のコンコースには、飲み会の待ち合わせらしい人々が増えている。新聞の折り込みチラシも増えてきた。経済活動が活発になってきたのは大変喜ばしい。しかし、ワクチン接種率が高い国々でもブレークスルー感染が広がり、感染者数・死者数とも増加している。油断は禁物。感染の第6波はいつ起きてもおかしくないということを頭に置いて行動していきたい。

 マスク着用と手洗いや消毒はすっかり定着しているけれども、過剰な手洗いや消毒はメリットがなく、不潔恐怖のレベルになってしまっては生活に支障をきたす。そうした人たちが少しずつ増えているような気がしてならない。文豪で軍医でもあった森鷗外が留学中にコッホの研究所で高性能顕微鏡をのぞいて細菌を目にして以来、不潔恐怖になってしまった話は以前に書いた(1521話)。肺病恐怖、AIDS恐怖というように、その時代に流行する感染症への恐怖からくる不潔恐怖というものはあるけれども、これだけ国を挙げて感染対策を徹底してきたことはないので、不潔恐怖が増えてもおかしくないだろう。

  森田先生は不潔恐怖の女性からの手紙に次のように返事を書かれている。かつては、水道管の錆びで水が茶色になることがあり、この女性は洗濯物についた鉄分のしみが気になって何度も洗い直してしまい、自分でも困っていた。

 いやらしい事、苦しい事に対しては誰人も皆いやらしく苦しく思ふ事は同様なれども、強迫観念の人は、自分ばかりが苦しくて氣のすむやうにするのが當然の事と思ひ違いをして居るのであります。夫れ故に強迫観念の治療法は、第一に自分の氣持悪い事をこらへ、我慢するやうにしなければなりません、洗ふ事も人並にして、決して氣のすむ迄、洗ふやうな事をしてはなりません。断然思ひきつて止めなければなりません。しかし只こらへるといふ事は困難ですから常に自分を忙しく働く境遇に置く事を工夫する事が便利であります。それが私の療法にある
作業療法であります。又、集會の席や目上の人の前に出る事は、きまり悪くいやな苦しいものであります。之も誰でも同様で決して自分ばかりではありません。この事を自分ばかりの特別の病的の事と考へるのが、神経質の自己中心的であり強迫観念の起る出発点であります。
 即ち之も人並みに苦しくとも、出るべき處行くべき處へは、断然行かなければなりません。
 以上申し上げた通り単に人並みに忍受して、なすべき事をして行きさへすれば、貴方が今迄、種々雑多の恐怖が、順々に忘れられて行つたやうに、此後も、如何に苦しい事があつても、其時々で間もなく忘れて行くやうになるのであります。(白揚社:森田正馬全集 第4巻 p.494-495)

 必要以上に手洗いや洗濯を繰り返すのは気分をよくしようとする無駄な行動に過ぎない。やりたい気持ちはこらえて、他の人と同じ程度の時間で済ませて、次の仕事に移っていくのが最善の治療法なのである。

2021年11月22日 (月)

神経質礼賛 1928.言い過ぎ・やり過ぎ・遣い過ぎ

 元気が出ない、やる気がしない、といった「うつ」の症状は誰しもなりたくないところである。それでは逆の状態はどうだろうか。気分が高揚し、次々とアイデアが浮かび、しゃべりまくり動きまくっても疲れ知らず。いいことずくめのように思われるかもしれない。しかし、それはそれで問題がある。以前書いたように(671話)躁状態になると、本人はいいけれども周囲に迷惑をかけやすい。職場や家庭で対人トラブルを起こしやすくなる。強気になって自分を押し通そうとするから言い過ぎて波風を立てやすい。余計なことをやり過ぎ人に干渉して嫌われる。気が大きくなって無駄遣いをしやすい。大抵、躁状態はいつまでも続かない。いずれはエネルギーが枯渇して、長いうつ状態に陥ることが多いのである。そうなると、躁状態の時に壊した対人関係や浪費による金銭問題が重くのしかかってきて、さらに落ち込みを深めるのである。躁状態を経験した人は、躁の時が自分のベストの状態だと誤解しやすい。本人にとって「ちょいウツ」位が客観的にはベストという場合が多いのである。

 調子が高い人・軽躁気味の人には「調子がいい時こそ飛ばさずに安全運転でいきましょう」「鏡を見るように、周りの人の言うことに耳を傾けましょうね」と常々アドバイスしている。また、躁状態では些細なことで怒りやすくなるので、対人関係を円滑に保っていく上で、森田の「感情の法則」(442話)を応用していくことも有意義である。躁うつとは言わないまでも、誰でも多かれ少なかれ気分の波はあるものだ。感情の法則はほとんどの人に当てはまることである。

  今回の森田療法学会1日目のケース・スーパービジョン、2日目の研修症例セッションともにⅡ型双極性障害(時々軽い躁状態を伴ううつ)ともパーソナリティ障害あるいは発達障害とも受け取れるケースで臨床心理士さんの発表だった。いずれの症例も言い過ぎ・やり過ぎ・遣い過ぎの面があって職場や家庭での人間関係がうまくいっておらず、それがまた症状を悪化させているように思えた。もちろん支持的精神療法をベースにせざるを得ず、森田療法の話はせずに森田療法的アプローチを入れているのではあるけれど、感情のコントロールに感情の法則を応用して損はないし、症状を追いかけることをやめた時に得られる心の自由(症状不問)をもう少し強調してもいいのではないか。指導・コメントする先生からもそれらしい指摘はなく、何だろうなあ?・・・というのが正直な感想である。

2021年11月21日 (日)

神経質礼賛 1927.Web開催の森田療法学会

 新型コロナ感染の広がりのため、昨年に九大で行われるはずだった第38回森田療法学会は今年に延期となり、さらに会場開催を取りやめWeb開催となった。参加申込はネットからでカード決済。ライブ配信とオンデマンド配信の二本立て。ライブは昨日11月20日(土)と今日21日(日)の2日間である。一般演題の発表はオンデマンドのみで昨日から始まり2週間視聴できる。
 昨年の精神神経学会がWeb開催だったので少し慣れたけれども、やり方が異なるため、戸惑うところもある。森田療法学会認定医の資格継続のため5年に1回はワークショップ(ケース・スーパービジョン)に参加しなくてはならない。これは守秘義務のある専門職のみが対象である。開始時間直前にあらかじめメールで送られてきたミーテイングIDとパスコードを入力すると入場できた。カメラをONにし、自分の名前がフルネームで表示されるようにと指示がある。わけもわからずいじっていると、何とかそのようにできた。画面には参加者のビデオ映像が表示される。最初は50人ほどだったのが後半には120人を超えていた。知っている先生たちの顔も映っている。発表が始まると参加者の表示は右側に小さく4人分だけとなり一番上に自分が映っている。↓を押せば全参加者を見ていくことも可能だ。顔に手をやったりアクビでもしようものなら写ってしまうから恥ずかしい。そんなことを気にしているとますます顔が痒くて触りたくなるという「悪循環」をきたす。それなりに緊張した2時間だった。例年のように遠くからスライド画面を見るのと違って見やすいのはとても良い。チャット機能もあるけれどもみな不慣れなせいか、意見や質問はWeb会議慣れした大学教員からばかりだった。
 Webだとわざわざ遠方から宿泊して会場に行く手間が省けて参加しやすい。特に一般演題は異なる会場で聞きたい発表が重なって聞けないということもないし、時間のある時にじっくり視聴すればよいので大変便利である。その代わり、昔馴染みの先生たちと実際に会って談笑できたり、その土地を散策してお土産を買ったりする楽しみがないのはちょっと寂しい。感染が収まったらの話だが、実開催とWeb開催と並行は大変だろうから、それぞれ1年おき位に開催してもらえればちょうどよいのではないかと思ったりする。

2021年11月18日 (木)

神経質礼賛 1926.同名

 保健所から措置診察の依頼があって、10kmほど離れた別の病院に出向く。保健所が手配した隣市にある会社のタクシーに乗り込むと、いきなり運転手さんが「同じ名前です。よろしく」と挨拶するので驚く。ダッシュボードの上に掲示されているネームを見ると、苗字は違うが名前は確かに私と同じである。よくありそうな名前だけれども、意外と同名の人に出会うことはめったにない。今の病院に移って引き継いだ外来患者さんに一人同じ名前の人がいて、長年勤務医をしていて初めての経験だ。歴史上の人物で調べてみても、真田氏の信濃松代藩第6代藩主が出てくるだけである。漢字を前後入れ替えた名前は時々見かける。

 ましてや同姓同名の人と出会ったことは一度もない。自分の名前をネット検索すると、自分以外には東京外語大ロシア語の先生、会社の部長さんの名前がヒットしていたが、最近は結婚相談所の所長さんが写真入りで出てくる。子供の頃は頻度の少ない苗字で嫌だなあと思っていた。漫画「おそ松くん」の登場人物「ハタ坊」のような言い方で「ナンだジョー」とからかわれるのも嫌だった。言いやすい苗字のためか、授業中に当てられやすい気もして、小心者で対人恐怖の私にとってはありがたくなかった。よくある苗字の人が羨ましく思えたものだ。しかし、親から受け継いだ姓名はよほどのことがなければ変えられないのだから何とも仕方がない。大人になってしまえば、もはや気にならなくなっている。むしろ、メジャーな苗字と名前だと、同姓同名の人がいて、間違えられてしまうことがあって、それはとても気の毒なことである。それに新聞の三面記事に登場する人物と同姓同名だったら、不快な思いをするのではないかと思う。病院でも同姓同名のカルテはよくあり、要注意である。

2021年11月14日 (日)

神経質礼賛 1925.バーバーのアダージョ

 昨日は仕事から帰ってからヴィオラを取り出し、ブリテンのシンプルシンフォニー第3楽章センチメンタルサラバンド、バーバーの弦楽のためのアダージョを弾いた。どちらも医大生の時、毎年今時分の季節に慰霊祭があって、医大オケの弦楽メンバーで弾いた曲である。バーバーのアダージョはケネディ大統領の葬儀の際に用いられた。映画プラトーンやエレファントマンでも使われている。弦楽四重奏曲の第2楽章を作曲者自身が弦楽合奏用に編曲したものだが、葬儀のための音楽のように思われることを嫌がっていたという。

 先週、友人から高校の同期会のLINEに招待してもいいですか、いう連絡があって、メンバーに加えてもらった。すると一昨日の夜、多くの同期生のコメントが次々と送られてきた。同期会の中心人物だったR君の通夜の会場からであり驚いた。会場周辺の渋滞がひどくてなかなか入れない・みんなマスクをしていて同期生がわからないけれど市長や国会議員が来ていた、(いつも元気だった)R君が今にも起き上がりそうに見えた、等々。友人は私が忙しいだろうと察して、事情を伏せていたのだろう。R君は中学に入った時、同級生だった。身体は小さいが運動神経抜群で同じ軟式テニス部でも一番上手かった。何事にも積極的で、神経質で引っ込み思案な私とは正反対だった。それまでなかった硬式テニス部を新たに作ろうと運動して教師たちと掛け合い、見事に作ってしまったのだ。彼は高校に入ってもテニスを続けた。大学を出た後は地元に帰り、家業の材木業だけでなくいろいろな新規事業を展開していった。サーフィンもやっていたらしい。たまに街で会うと「よお!」と声を掛けてくれた。今年の新年会は新型コロナのため中止となり、しばらく顔を見ていなかった。死因は聞いていないけれども、あれだけタフなR君が亡くなるとは・・・。バーバーのアダージョを弾くのが私なりの彼への追悼である。

 本当に、人の命はわからないものだ。日新又日新。与えられた一日を精一杯生き尽くして行こうとあらためて思う。

2021年11月11日 (木)

神経質礼賛 1924.P-Fスタディ

 一昨日の朝は雨が降っていた。当直の荷物を持って駅に向かう。あと100mほどで地下道への入口だというところで、「バッシャーン」「うわっ」。前方からかなりスピードを出して走って来た路線バスが大きな水たまりの水を勢いよく跳ね上げ、傘をさしていたのに、横から水を浴びてしまったのだ。頭や顔の左側も水を被っている。これだけ派手に水をかけられたのは初めてである。不潔恐怖の人だったら、すぐに家に戻ってシャワーを浴びて着替えするところだろう。怒るのも忘れて、とにかく駅へ向かい、始発電車に乗り込む。

 心理検査にP-Fスタディというものがある。欲求不満場面の漫画が24枚あって、漫画の吹き出しにセリフを入れてもらい、その場面でどう答えるかをみるものだ。その中に車から水を跳ねかけられる場面がある。他にも映画館で前の席の人が帽子を被っていて見えないとか、スピード違反で警官に捕まったとか、謂れのない非難を浴びている場面などがある。常識的な反応をする割合GCRは通常60~70%程度であるが、社会適応が悪い人やパーソナリティ障害の人の場合では低くなる。また、その反応を分析すると、その人の対人交流のパターンが見えてくる。

 一昨日の出来事は、まさに現実場面のP-Fスタディである。昔は怒りの沸点が低くて、些細なことにしょっちゅうカチンときていたのが、近頃は鈍感になったものだ、いよいよボケてきたか、と苦笑する。

2021年11月 7日 (日)

神経質礼賛 1923.コロナワクチンからインフルワクチン接種へ

 入院やデイケアの患者さん、職員の家族への2回目の新型コロナワクチン接種が終了してやれやれと思っていたら、11月からはインフルエンザワクチン接種が始まった。外来に通院している患者さんの接種も受け付けている。去年までは医師が問診したら処置室で看護師さんが注射してくれたものが、今年はワクチンを詰めた注射器を持ってきてくれるだけになった。通常の外来診察をしてから注射の問診をしてその場で医師が注射しなくてはならない。若い女性患者さんからは「え!先生が打つの?」と言われるし、服を何重にも着込んだ高齢患者さんだと服の脱着にとても時間がかかってそれを待っていなくてはならない。診察待ちの患者さんが増えてしまって気が気ではない。気は焦るけれども何とも仕方がない。淡々とこなしていくだけである。外来が終わってからも、病棟からワクチン注射依頼の電話がバラバラとかかってくる。当分はこれが続くのだろう。来年には新型コロナワクチンの職員への3回目接種が始まる。

 このところ、すっかり新型コロナワクチンの筋肉注射に慣れてきたが、インフルエンザワクチンは皮下注射である。諸外国ではインフルエンザワクチンも筋肉注射であり、皮下注射にこだわっているのは日本だけらしい。かつて筋肉注射による大腿四頭筋拘縮症の医療事故が影響しているとのことだが、インフルエンザワクチンの場合も筋肉注射の方が効果が高く副反応もきたしにくいメリットがあるという話がある。このあたりは、しっかり研究調査して、筋肉注射の方が優れているのであれば方針を切り替える必要があるのではないかと思う。

2021年11月 4日 (木)

神経質礼賛 1922.ナポリタン

 かつて母のために買っておいた食材や調味料は大部分消費したり処分したりしたけれども、未開封のケチャップ500gが残ってしまった。そろそろ賞味期限がきてしまうし、普段ケチャップを使うことはない。はて困った。私は食品を捨てるのは好まない。神経質としては「物の性を尽くす」(350話)で残さず使い切りたい。ケチャップの包装袋にナポリタンの作り方が書いてあった。そうだ、ナポリタン作ろう! と言っても、料理下手の私でも大丈夫、実に簡単である。スパゲティを茹でて湯切りしておく。記載されている茹で時間より少し長めに茹でるとよい。刻んだ玉ねぎとソーセージをフライパンで炒めて多めにケチャップを加えてさらに炒める。今、高価なピーマンは省略。ケチャップが煮詰まっていくと炒めた玉ねぎの甘い香りと相まってたまらなくいい匂いがしてくる。スパゲティを加えて十分にからめたら、作り方に書いてあるように「追いケチャップ」をして完成だ! 簡単な割にはなかなかいける。病院食に時々出るナポリタンは作ってから時間が経ってしまっているため、こっちの方が圧倒的に美味しい。

 食堂だと、スパゲティを茹で置きして保存し、注文が入ったらすぐにフライパンで調理して出せるようにしているそうである。その方がモチモチした感じになるという。日本で言うナポリタンはナポリにはないという話はよく聞く。ナポリタンもラーメン同様、ある意味日本食なのかもしれない。ケチャップは塩分が少ないし、赤色成分はトマトのリコピンで健康に良い。残ったケチャップの処理に困った時は、ナポリタンにして美味しくいただくのがお勧めである。

2021年11月 1日 (月)

神経質礼賛 1921.週刊メイチョウ

 注文した本が昨日入ったので一日で一気に読み通した。鈴木明徴(あきよし)著『週刊メイチョウ』(静岡新聞社)。奥付によれば、著者は昭和12年生の静岡市出身。静岡高校から東大理学部卒業後3年間静岡雙葉高校教諭、昭和39年から県立静岡高校教諭、昭和52年から静岡西高校、川根高校を経て、焼津中央高校教頭、県立横須賀高校校長、藤枝西高校校長、三島北高校校長を歴任とある。この書には前書きも後書きもないので、いきなり読んだら面食らうだろうが、静岡高校教諭の時代に毎週ガリ版刷りの随筆を生徒に配っていて、それは週刊メイチョウと呼ばれていたそうだ。この本に掲載されているのは昭和40年から41年頃の記事が中心。多くは半世紀以上前に書かれていながら、現代にもそのまま通じる話である。バスケット部の顧問をしておられたのでスポーツマンについて書いたシリーズや、「思い上がるな静高生」と手厳しくも慈愛に満ちた苦言も綴られている。「メイチョウの哲学入門」は理系出身らしく、スマートに哲学や政治経済を論じている。確か社会を教えておられたはずで、理系クラスで弦楽合奏部員の私は御縁がなかったけれども、とても人気のある先生だったからお顔は覚えている。

 メイチョウ先生の苦言をちょっと紹介しよう。
「実際に行わないうちから、きっとこうなるだろう、ああなるだろう、そうするときっとこうなる。そうなったらこれはたまらん、やっぱりやめとけ、というような頭の中の操作だけで自分がまいってしまう」(p.118)
「チンマリと小さくちぢこまって、胸を張ってさっそうと行動したり、相手を威圧するような自信にあふれたまなざしをした奴など一人もいない。そして態度はオドオドしているし、口を開けばやらずに済ませるための弁護ばかり。物事には無関心で背中ばかりむけたがる。そして最後に心の中で小さくつぶやくのは、自己弁護と自己弁明ばかりだ」(p.123)

 当ブログをお読みの方はすぐにピンとくるだろう。まさに頭でっかちで行動が伴わない神経質者への苦言に他ならないのである。そして、そのメイチョウ先生御自身も「幼少の頃、家庭内にいろいろあって、私の性格は他人の思惑を考え、おどおどと暮らしていた。そんな私の本性は一生変わる事はなかったが、その受け止め方は色々な生活体験によって驚くほど変わった」(p.246)とあり、実は神経質性格の持ち主だったのだ。そして、人生を大きく変えてくれたのはバスケットに打ち込んだことが一番大きかったようである。集団の中で行動本位・目的本位の姿勢が身に付き、心身ともに鍛錬されていったとみることができそうだ。

 私よりも年配の同窓生のブログによれば、メイチョウ先生は昨年亡くなられ、今回の出版は奥様によるものだそうである。直接お話を伺うことができないのは残念だ。

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