神経質礼賛 1929.氣持良くしやうとしてはいけない
帰りの電車を待っていると、反対側下りホームに旗を持ったツアーコンダクターに引率された中高年の男女が20名ほど列をなして現れた。新型コロナが今のところ収まっていて、行楽ツアーが再開されつつある。駅のコンコースには、飲み会の待ち合わせらしい人々が増えている。新聞の折り込みチラシも増えてきた。経済活動が活発になってきたのは大変喜ばしい。しかし、ワクチン接種率が高い国々でもブレークスルー感染が広がり、感染者数・死者数とも増加している。油断は禁物。感染の第6波はいつ起きてもおかしくないということを頭に置いて行動していきたい。
マスク着用と手洗いや消毒はすっかり定着しているけれども、過剰な手洗いや消毒はメリットがなく、不潔恐怖のレベルになってしまっては生活に支障をきたす。そうした人たちが少しずつ増えているような気がしてならない。文豪で軍医でもあった森鷗外が留学中にコッホの研究所で高性能顕微鏡をのぞいて細菌を目にして以来、不潔恐怖になってしまった話は以前に書いた(1521話)。肺病恐怖、AIDS恐怖というように、その時代に流行する感染症への恐怖からくる不潔恐怖というものはあるけれども、これだけ国を挙げて感染対策を徹底してきたことはないので、不潔恐怖が増えてもおかしくないだろう。
森田先生は不潔恐怖の女性からの手紙に次のように返事を書かれている。かつては、水道管の錆びで水が茶色になることがあり、この女性は洗濯物についた鉄分のしみが気になって何度も洗い直してしまい、自分でも困っていた。
いやらしい事、苦しい事に対しては誰人も皆いやらしく苦しく思ふ事は同様なれども、強迫観念の人は、自分ばかりが苦しくて氣のすむやうにするのが當然の事と思ひ違いをして居るのであります。夫れ故に強迫観念の治療法は、第一に自分の氣持悪い事をこらへ、我慢するやうにしなければなりません、洗ふ事も人並にして、決して氣のすむ迄、洗ふやうな事をしてはなりません。断然思ひきつて止めなければなりません。しかし只こらへるといふ事は困難ですから常に自分を忙しく働く境遇に置く事を工夫する事が便利であります。それが私の療法にある
作業療法であります。又、集會の席や目上の人の前に出る事は、きまり悪くいやな苦しいものであります。之も誰でも同様で決して自分ばかりではありません。この事を自分ばかりの特別の病的の事と考へるのが、神経質の自己中心的であり強迫観念の起る出発点であります。
即ち之も人並みに苦しくとも、出るべき處行くべき處へは、断然行かなければなりません。
以上申し上げた通り単に人並みに忍受して、なすべき事をして行きさへすれば、貴方が今迄、種々雑多の恐怖が、順々に忘れられて行つたやうに、此後も、如何に苦しい事があつても、其時々で間もなく忘れて行くやうになるのであります。(白揚社:森田正馬全集 第4巻 p.494-495)
必要以上に手洗いや洗濯を繰り返すのは気分をよくしようとする無駄な行動に過ぎない。やりたい気持ちはこらえて、他の人と同じ程度の時間で済ませて、次の仕事に移っていくのが最善の治療法なのである。
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