白揚社の森田正馬全集第5巻は森田先生の言葉を直に味わうことができる貴重な書であり、当ブログでもしばしば引用させていただいている。自助グループ「生活の発見会」では、この第5巻を輪読する勉強会も行われている。その第5巻の冒頭には『神経質療法への道』序文が掲載されている。読み飛ばしてしまうか、一読しても後で読み直すことはないか、そんな存在だけれども、森田療法の本質を凝縮した内容であるから、紹介しておきたい。
神経質―それは、従来・学者の唱へて居る神経質とは、意味がちがう。それは従来のは、「鯨も海亀も、共に、魚の類である」といつた程度のものである。この故に正確には、「森田の神経質」といはなければ、其限定した内容は判らない。
「森田の神経質」は、余が人の氣質・即ち精神的傾向を七種類に分けた内の一つであつて、之が病的になれば、従来のいわゆる神経衰弱的になる。
この神経衰弱症も、余の唱ふるものは、従来のものとは、全く其解釈がちがう。それは恰(あたか)も、従来の神経衰弱では、太陽が天空を運行するものと解釈してゐたのを余の説では、その太陽が動くが如く見ゆるは、我地球が自転するがためである・と解するやうなものである。
それで現在、之に悩んでゐる患者は、神経質とか神経衰弱とか・いへば、人聞きが悪く・肩身が狭いかと思ふ。それが、余の精神修養療法によつて、一たび全治すると、初めて自分が、神経質の素質に生まれたのは、かえつて、恵まれたる運命のもとにある事を悦び・寧ろ誇らしく感ずるやうになり、これ迄、神経衰弱と思つて居たのは、実は神経の衰弱でもなければ、身体の虚弱でもなかつた・といふ事を体験会得するやうになるのである。
斯(か)くいふ・余の神経質・賛美の言に対して、或一部の机上論者は、之を詭弁とし、或は患者治療のための暗示手段である・といふ風に評する事がある。
余のいふ處は、たゞ野口英世や・二宮尊徳が、其貧乏に生まれた事が、却って彼等の誇りとなり、白隠の神経衰弱や・親鸞の強迫観念が、決して肩身が狭く・隠しだてするにも當らぬ・と同様である。若し野口が、貧乏でなかつたならば・あれだけの努力心は育たなかつたらうし、親鸞に、罪悪恐怖の苦悩がなかつたならば、あの安心立命の境地を悟る機会はなかつたであらう。
斯くいふとて、常識ある人は、決して世の中に、貧乏や苦悩を賛美して、世人に一生の清貧や・苦行を奨励すべき筈のものではあるまい。
凡そ学者は、学者になれば・なるほど、言論の言葉尻に捉われるからいやである。
(以下略) (白揚社:森田正馬全集第5巻 p.23)
森田先生の時代には神経症は神経衰弱と呼ばれ不治の病とされ恐れられていた。そして全く効果のない種々の「治療」が行われていた。それが「余の精神修養療法」(森田療法)によって全治することが実証されたのだ。さらに全治者たちは神経質の素質を生かして社会で活躍し、その素質を持っていることを喜び、誇りに思うようになる。まさに神経質礼賛である。
せっかく恵まれた能力を持っていながら、それを症状探しのために無駄遣いしていてはもったいない。優れた高速CPUを搭載したコンピュータであっても、ソフトが悪くければフリーズして使い物にならないのと同じである。高性能エンジン搭載の高級車だってギアをニュートラルに入れたままでアクセルをいくら踏んでも、1センチも前へは進まない。理屈は後にして、手を動かし、足を動かし、少しでも目的に向かって実際の行動に移るのが神経質を活用する秘訣である。そして先延ばしにしないで気分はともかくやってみることだ。神経質を生かすも殺すもあなた次第なのである。
最近のコメント