神経質礼賛 1968.回転菓子台
静岡駅前のデパート松坂屋の地下食品売場から惜しまれつつ消えていったものがある。色とりどりのキャンディーやチョコレートやカステラなどの菓子を載せてゆっくりと回る量り売り用の大小2台の回転菓子台である。50年以上動いてきたこれらの回転菓子台は昨日が最終日で、ローカルニュースでは大勢の人々が集まっている様子が報じられていた。思わず大人買いをしてしまったという人もいたようだ。
子供の頃のデパートの思い出と言えば、屋上遊園地や最上階のレストランやおもちゃ売り場とともにこの回転菓子台を挙げる方も少なくないと思う。我が家は家族連れでデパートに行くことは全くなかった。日曜日、毎週のように父は早朝から釣りに出かけていたからである。ただ、たまに母の買物に付いて行った時に、待っている間、デパート地下の回転菓子台は眺めていた記憶がある。また、何の菓子だったか忘れたが、作られる工程がガラス越しに見られるようになっているのも面白くて見飽きなかった。神経質で親にねだることをしない子供にとっても、それなりに楽しめる場だったように思う。
漫画やアニメの「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」でもデパートを舞台にした話は時々出てくる。特に「ちびまる子ちゃん」では清水から電車で静岡まで家族でやってくる場面があって、作者のさくらももこさんも松坂屋に実際に家族で来ていたのだろうなと思う。かつては休日ともなれば家族連れで賑わっていた。しかし昨今は、広い駐車場のある郊外型の大型商業施設に客を奪われ、ネット通販の普及や少子化の影響もあって、デパートは大苦戦していて、各地で閉店が相次いでいる。デパートの魅力は何だろうかと考えると、高級感・信頼感の他にシアワセ感やエンターテインメント性もあったのではなかろうか。商品だけでなく夢も売っていたと言えるだろう。そのあたりを打ち出していくことができれば再生の道もあるだろうと思う。
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四分休符先生
先生とはほぼ同年代と思われますが、私の子供の頃の記憶は、鎌倉・円覚寺杉木立の木漏れ日、かもしれません。先生のようにハイカラではないです。
2歳半~小学校2年の1学期まで鎌倉市大船に親の都合で住まっていました。貴重な5年間だっと思います。車に轢かれて後遺症。今でも。母親は責任を感じて詫びますが私は物心ついた時からですから、全然気になりません。乗り物酔い、人酔い、映画館酔い、便秘症、母恋しいというほぼ小児神経症。両親の里へ行った時の原爆資料館の衝撃。二度と行きたくはない、子供心にも恐ろしさは強烈でした。
そしてクラシックとの出会い。5歳でしたね。聴いて涙をこぼしたものです。食べ過ぎで寝込んだ私にはひそやかな感動でした。
多分今の私を形作っているのはこの頃に形成されたのでは?と思うようです。が、もう振り返らない。思い出せば思い出すだけの事。
東京生まれの近郊育ちですが、私は広島人と自称しています。
ですが、生涯に一度は鎌倉市に住まっていた事は多分心の宝かもしれません。観光地化されていない鎌倉、自然、家族での歩け、歩けの行軍?なにせ、ビンボーだったらしく、休日は父を先頭に歩く。父が兵学校の出身だから?行軍以外の何ものでも無い。でも自然豊かでしたし、江ノ島もあり。
切通しを歩いて行くと北鎌倉は近道。母に連れられて北鎌倉へ出る。そして一駅、でしたでしょうか、鎌倉で買い物。そんな子供時代でした。
横浜とてデパートがあったかどうか...酔った記憶だけで記憶が定かではありません。 同年代とはいえ、いろいろですね、先生。
投稿: yukimiya | 2022年3月27日 (日) 08時14分
yukimiya 様
コメントいただきありがとうございます。
幼少期に鎌倉という落ち着いたすばらしい環境で育たれたのですね。北鎌倉駅から鎌倉駅へと歩いていく(あるいは逆順の)ルートでは、季節おりおりの草花を愛でながら古寺に立ち寄ることができます。でも坂が多くて子供の足にはちょっときつかったことでしょう。私は小3から小5まで横浜にいたので、小学校の遠足で行ったのが「初鎌倉」です。大学生の時はデートの相手はおらず(笑)、一人で何度か鎌倉を訪れています。
私は広島に行ったことがなく原爆資料館は見たことがありませんが、小学校4年か5年の時に横浜で原爆展があり、多くの写真や亡くなった方々の遺品を見て大変なショックを受けました。今のウクライナの戦闘に生物兵器や核兵器が投入される恐れがあるという話を聞くと戦慄が走ります。絶対にそうなってはいけないと思います。
投稿: 四分休符 | 2022年3月27日 (日) 12時22分