神経質礼賛 1974.藤子不二雄Ⓐさん死去
一昨日、藤子不二雄Ⓐ(我孫子素雄)さん死去の報がニュースで流れた。共同制作者だった藤子・F・不二雄(藤本弘)さんが四半世紀前に亡くなってからもお元気に活動しておられた。私くらいの年代は「オバケのQ太郎」のアニメを夢中になって見たものである。
Ⓐさんは富山県の曹洞宗のお寺の生まれ。戦時中に父親を亡くしてFさんの小学校に転校してきた。Ⓐさんが休み時間にノートに漫画を描いているのをFさんが見て、二人は親友になった。戦後、手塚治虫の漫画にあこがれ、二人で漫画家への道を歩み、やがては漫画家たちが集まるトキワ荘で生活するようになる。共同作品「オバケのQ太郎」が大ヒットしてからもFさんは「パーマン」「ドラえもん」といった少年漫画を描き続けたのに対し、Ⓐさんは「忍者ハットリくん」「怪物くん」から「プロゴルファー猿」「笑ウせぇるすまん」といった成人向けのブラックユーモア作品に移って行った。また、文筆力にも優れ、エッセイも書いていた。
ⒶさんはFさんと異なり、ゴルフや酒など、人付き合いを好んだ。しかし、少年時代は体が小さくてよくいじめられるとともに、赤面恐怖があり、電熱器とあだ名されていたという。社交性は後天的なもので、元来は恥ずかしがりの神経質な性格だったのではなかろうか。いじめられる悔しさや不甲斐なさを糧として、それを漫画作品に生かしていったとも考えられる。
« 神経質礼賛 1973.気象病 | トップページ | 神経質礼賛 1975.お地蔵さんがやって来た »
コメント