神経質礼賛 1983.高天神城跡
昨日の朝は5時半に家を出て出勤。休みが続いている間に病棟の患者さんたちにはいろいろなことが起きているし、書かなくてはならない書類も発生する。予想通り電子カルテには報告事項が大量に溜まっていた。それをチェックしてから病棟に行って担当患者さんの様子を見て回る。幸い大きな問題は起きていなかったので、10時までには仕事を終える。
掛川は普段通勤のため往復するだけであるが、一度行ってみたい場所があった。『家康 その一言』にも書いた徳川氏と武田氏の激戦地、高天神城跡である。両氏はこの城を巡って激しい争奪戦を繰り返していた。城主の小笠原氏は徳川方についており、三方原の戦の前年1571年、地形を生かしたこの堅固な城で武田信玄の二万余の大軍の攻撃に耐えていたが、1574年、やはり二万の大軍で攻めてきた武田勝頼についに落とされた。その後、長篠の戦で敗れた勝頼はこの城を重要拠点として守備を固めていた。一方の徳川家康は横須賀城を築き、さらに六つの砦を作って包囲して兵糧攻めを行った。兵糧が尽きても武田氏からの援軍はなく、城代の岡部真幸らは突撃して討死したのだった。拙著ではその際のエピソードを紹介している。
(家康の)執念深さを示す話がある。天正九年(1581)に家康は武田方の重要拠点だった高天神城を攻め落とした。その際、生き残った敵方の将兵たちは助けたが、一人だけ切腹させた武将がいた。それは、今川家の元家臣だった孕石(はらみいし)元泰。家康が今川の人質だった時代に隣家に住んでいて、しばしば家康が飼っていた鷹が迷い込むと「三河の小倅にはうんざりだ」と文句を言っていた。家康にしてみれば嫌がらせに思えて根に持っていたのだろう。二十年以上も経ってから、倍返しどころか千倍返しである。(『家康 その一言』 p.13-14)
この孕石元泰は南を向いて切腹しようとしたところ、家康の家臣から「(浄土のある)西を向いて切腹するものだ。そんなことも知らないのか」と言われても改めず南を向いて果てた。その際、「十方が浄土でどこを向くも随意なり」と言ったとか「(浄土は)皆身(→南)にぞある」と言ったとも伝えられ、実は気骨のある人物だったように思える。
掛川駅の観光案内所で高天神城跡のパンフレットをもらう。大東方面行のバスに乗り、20分ほどで土方というバス停で降りる。駅で乗った若い男性3人もここで降りた。どうやら目的地は私と同じらしい。しかし、バス停周辺には案内板が見当たらないので、みな右往左往である(実は100mほど先に大きな看板があったのを帰りに知る)。向かいの交番は留守で、地図も貼ってない。だいぶ遠回りをしたけれども、大手門近くの駐車場に行きつく。そこから石段の山登りだ。息切れがして時々休む。途中、二の丸方面への分岐点にはロープが張られ、「がけ崩れのため通行禁止」の札が出ていた。三の丸跡と本丸跡を見て引き返す。高低差100mほどと、さほど高くはないが、急斜面のため攻め上るのは難しかっただろうな、と実感したのだった。
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