神経質礼賛 2063.「我」をおしたてよ
私たち神経質、特に対人恐怖傾向の人はどうも自己主張が弱く、周囲の目を気にして引いてしまいがちである。いわゆる弱力性が行動面に表れやすいのである。それで満足しているかと言えばそうではない。本来は生の欲望が強くて内心は負けず嫌いという強力性を持っているから、欲求不満に陥りやすい。「恥かしがるのを以て、自らをフガヒなしとし、恥かしがらじとする負けじ魂の意地張り根性」(白揚社:森田正馬全集 第3巻 p.114)という表現がピッタリである。この言葉を知った時、まさに自分のことをピタリと言い当てられたと感じたものだ。森田先生は形外会の場で次のように言っておられる。
「我」とは、電柱に突き当たって癪にさわるとか、親に叱られて腹立たしいとかいうのも、時と場合における「自然の感じ」であって、これが「我」である。皿を落として割って、思わず取り上げてつぎ合わせて見るとかいうのも同様で、いまさらつぎ合わせたとてしかたがない。柱に腹を立てるのは無理だとかいうのは、単なる屁理屈であって自然の感じではない。私は、この「自然の感じ」を、最も大切に尊重しなければならぬというのであります。
一般に教育とか修養とかは、この「我」を否定・抑圧する稽古を積むのである。私からみれば、これが最も大なる弊害である。古来の偉人は野口英世や二宮尊徳でも、エジソンやニュートンでも、皆この「我」をおしたてて努力した人ばかりである。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.556-557)
偉人にはなれなくても、もう少し、考え過ぎず感じるままにスッと行動していけば自分も楽になれるはずである。つい下を向いてぼそぼそ小声で話しがちになるけれども、時には背筋を伸ばして思ったことを大きな声で言ってみよう。
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