神経質礼賛 2090.弱くなり切った家康公
毎月送っていただいている「生活の発見」誌四月号の「遊You」コーナーに拙著『家康 その一言』の紹介記事があった。書かれたのは生活の発見会・生泉会会員、さらには「鈴木学校」卒業者で正知会会員でもある藤田嘉信さんである。以前、畑野文夫さんをはじめとする正知会メンバーが三島森田病院に見学に来られた際にお目にかかったことがある。
従来、家康公のイメージは、よく言えば、苦労人から出発し、何事にも動じない強い胆力があって苦難に耐え抜いた人物。悪く言えば棚ぼた式に天下を取ったずる賢い狸親父といったところである。しかし、本当は短気で小心で心配性で動揺しやすい神経質人間だったというのが私の主張である。今年の大河ドラマ「どうする家康」では従来になかった家康公のそうした部分にも光を当てているようである。家康公は、幼くして母と生き別れになり、分離不安を抱えていて、不安になると爪を噛む癖があった。父親も祖父も若くして家臣に暗殺されている。だから、家臣の扱いは極めて慎重であり、家臣の意見をよく聞き、家臣に対して「殿」と呼んでいたという話もある。これほど家臣に気配りした戦国武将はまずいないであろう。弱力性と強力性を併せ持った神経質であるから、周囲からは「何を考えていらっしゃるかわからない」と言われていたらしい。武田信玄が浜松に攻めて来た時、家臣の多くが籠城戦を主張したにもかかわらず、家康にしては珍しく撃って出ることを主張して惨敗を喫したのが三方原の戦である。籠城していたのでは地侍の離反を招く恐れがあり、援軍を出してくれた織田信長への配慮もあったのだろう。強力性が裏目に出たのだ。それからというもの、弱力性を前面に出して、ひたすら弱くなりきった。自分の情けない姿を画家に描かせた「しかみ像」を座右に置き、慢心しないように常に自分を戒めていたと言われる。武田への密通を信長から疑われた嫡男の信康を切腹させ妻の築山殿(瀬名姫)を殺害した件にしても、煮え湯を飲む思いで耐え忍んだ。その結果、信長からも秀吉からも、徳川殿は図抜けた律義者であると認められるところとなった。そして、そのガマンが天下取りにつながり、長い平和の世を構築することができたのだ。徹底的に「弱くなりきる」(277話)を通して大成した最高の人物が家康公だと言えると思う。
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