神経質礼賛 2122.瀬名と信康の最期
大河ドラマ「どうする家康」も前半を終わり、前回は瀬名(築山殿)の最期・嫡男信康の切腹の悲劇が描かれていた。ドラマでは瀬名が平和な社会・経済的に助け合う社会を目指して武田や北条と手を組む活動をしていたのが武田への内通とされて、家康は瀬名と信康を何とか助けようとするがかなわず二人を処分せざるを得なかったとしている。いくら何でもこれはありえない話である。しかも武田の重臣の穴山梅雪(信君)が中国人医師に化けて築山殿に会いに来るというのは実現不可能である。以前にも家康主従が山中で暖を取っていたら、ふらりと普段着の武田信玄が現れて、食べ物を分けてくれるというようなシーンがあって、武田は「どこでもドア」を持っているのか、とツッコミをいれたくなってしまう。
最近の研究では信長の命令で二人を処分したのではなく、家康自身の判断で処分が行われたという説が有力になっている。しかし、形の上では自分の判断かもしれないが、織田信長に忖度し、酒井忠次(1515話)に忖度し、妻子が武田へ内通していると疑われた以上もはやどうにもならないと断腸の思いでの決定だったと思う。酒井忠次には、信康の妻で信長の娘である五徳の侍女を側室に望み、五徳の信長への讒言を支持した疑惑もある。瀬名と信康は徳川家さらにはのちに誕生する徳川幕府の人柱となったのである。彼らの犠牲により、徳川殿は度を過ぎた律義者である、という印象を信長や秀吉の頭に強烈に焼き付け、秀吉には「息子を頼む」と言わしめたのである。
それにしても、妻の処分を命じ、戦場での討死ならばともかく息子に切腹を命じた家康は相当な精神的ダメージを受けたはずである。ライフイベントによるストレス研究では、配偶者の死は最大のストレスとされている。それに息子の死、しかも自分の命令とあってはなおさらである。のちに息子の禄が少ないと訴えた酒井忠次に「お前も息子がかわいいか」と強烈な嫌味を言ったり、関ケ原の戦では「せがれ(信康)が生きておればこんなに苦労はしておるまい」とボヤいたりしている。人生最大の汚点として家康の心に一生残ったことであろう。
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