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2023年7月 9日 (日)

神経質礼賛 2123.松平家忠日記

 近年、家康関連の研究で重要視されているのが松平家忠日記である。先週、盛本昌弘著『家康家臣の戦と日常 松平家忠日記をよむ』(角川ソフィア文庫)を買ってきて読み始めた。家康は松平家初代親氏から数えて九代目になる。三代目の信光の子孫から分家が始まっていて、十四松平とか十八松平と言われるように数多くの分家があった。分家同士で領地を争いあったり、協力して外敵と戦ったりもしていた。この日記を書いた家忠は、深溝(ふこうず・・・現在の愛知県幸田町)松平と呼ばれる家系の当主である。家康に仕え、関ヶ原の戦の直前に伏見城を守っていて石田三成の大軍に攻められて鳥居元忠らとともに壮絶な最期を遂げている。日記は子孫がずっと保存していて現在は駒澤大学図書館が保管しており、天正五年(1577年)から文禄三年(1594年)の記録が残っている。その日の出来事を簡潔に記録するとともに、伝聞については本文の下部や上部に書き加えてあり、区別できるという。天候が記録され、日食や月食についても書いてある。また、絵も描き入れてあり、将棋の棋譜まで描いてあったりする。そんなわけで、信憑性の高い資料として珍重されている。そして、当時の武士の日常生活についても知ることができる貴重な資料である。家臣たちが順繰りに泊まり込みで主君の支城の番をしているあたりは、つい病院の当直勤務を連想してしまう。前話の信康切腹が家康の意向だったという説はこの日記の記載を引用しているが、肝心のところの文字が判読不能になっていて、そこを推察した上での説である。また、家康の苦難の浜松時代を支えて跡継ぎの秀忠を産んだ西郷の局(於愛の方)が急死して、家忠が慌てて駿府に赴き、三日後の葬儀に参列した記録がある。同じあたりに家康の家臣が喧嘩で死亡した記載があって西郷の局もそれに巻き込まれて急死したのではないかと勘繰る説も出ていて、話題が尽きない。大河ドラマでは西郷の局は瀬名の後継ヒロインとなっているようで、その死をどう描くか注目している。  これだけの記録を長年にわたり続けた松平家忠はやはり神経質人間と言っていいように思う。日記にいろいろなことを書き込み、後世の研究者たちに貴重な情報を残した点では森田正馬先生の日記(1939話)も同様である。

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コメント

 四分休符先生

 日誌・日記または消息という記録は面白いです。時には掛け物にさえなる。

 歴史証拠を確実にするには記録というやり方は非常に貴重。但し、ヒトの歴史に争いは付き物で、それは勝者の歴史として遺る。すると真実は不確実になる。

 私のような小市民の日記などはどーでもよいのですが、私は小学校3年生の正月、ですから、9or10歳であろうか、書き始めている。書き始めてほぼ60年経つ。されど、この最初の日記ほど愉快なものはない。

 ロシア民謡よろしく、「今日は水を貯め、明日風呂を焚き、明後日風呂に入り、翌日洗濯し、翌々日洗濯を干し」の如くである。 つまり、「叔父が来た、うれしかった」「○○ちゃんと遊んだ。楽しかった」まぁ、そんな世界である。 私の父は極めて厳しかったので父との接触は書かれていないと思う。しかし、鉄腕アトムのシールが貼ってあったり、絵の具や色鉛筆で絵?イラスト?が描かれてある。多分、私ワールドであったのだろう。 読み返していないが、事実プラスその事実に関しての感情。ほぼ1行。それのみ。

 が、私に衝撃を与えたのが、鈴木先生の元での日誌の付け方である。「起こった事実のみ書く事。感情は一切書かない」これを入院中毎晩皆それぞれに書いて先生に提出する。翌日、朱が入って返ってくる。

 以来、私の日記の書き方は変わった。最近ではあちこち行動するので「起こった事、行動プラス時間」が書かれる。健康状態は○or×。服薬。収支。

 読み返す事は、まず無い。が、そろそろ梨の時期で梨農家さんを訪ねたのは去年いつだっただろうか、そんな事を確認しるのにはこのメモ書きのごとき日記は必要になる。買い占めて何処へバイクに積んで届けたのか、それも解る。まぁ、その程度。

 分量として大量となった日誌はまとめて真上に大きく「処分」と書いて遺してある。私亡き後、遺った者に処分をお願いする。私には処分出来かねる、つまらぬメモだとしても。

 さて、築山殿。私は久しく大河を観ておらず、今回もご多分に漏れず。しかし、戦国時代に生きた女達の一人として築山殿の死は衝撃的ではあった。今回の大河でどのように脚色されているのか知らないが、女の戦国にも男同様の覚悟は必要であったと容易に想像できる。お市の方、その娘達、細川ガラシャ、築山殿とその長男も同様である。容赦ない人質である。覚悟無くしてどうして生きていけよう。

 私なら、市井の者であればそれなりの人生であったであろう、されど、それなりの武将の家に生まれたならば、発狂していたかも、と思うのです。そう、救い出されたお千の方の生涯が不明なように。吉田か?鎌倉の尼寺か?

 何代も遡れるような家系ではない。ある意味、救いかもしれない。しかし、父死亡の折になんで?と思うほどの系図を取り寄せた時には、しみじみ人一人の人生があったのだ、と思いふけったものです。

 伝える子孫の無い私はせいぜい甥っ子に伝えるだけ伝えておこう。まぁ、こんなものです。 神経質ならでは日記を書いたか?それは解らない。されど、薬袋とそのサンプルは色あせてもまとめて17歳の最初から取っておいてあるのはやはり神経質なのかなぁ、とも思うのです。余計なものを取っておいてあるものです(^^ゞ 勿論、鈴木先生処方の薬袋も。朱で「高貴薬」と判が押されているのがなんだか可笑しい。


yukimiya 様

 コメントいただきありがとうございます。

 60年以上も日記を続けていらっしゃるのは実にすばらしいことです。根気強い神経質でなくしてはできないことです。鈴木学校の御経験で日記のスタイルがだいぶ変化したのではないでしょうか。「高貴薬」の判が押された薬袋に入っていた薬は何だったのか興味がわきますね。
 戦国時代は何かと人質を取ることが行われ、約束を違うと磔刑や串刺しの刑など残忍なことが日常茶飯事に起こっていました。女性や子供も多数犠牲になっていました。戦乱の世の中から、そういう悲劇が起きない世に転換した家康の業績は極めて大きいと思います。


 四分休符 先生

 鈴木知準先生のところでの薬の扱いについて、私が体験した昭和40年代中頃のことを記してみます。
 yukimiya様の「高貴薬」袋として渡されたとのこと、そういうことは全くありませんでした。
 
 だいたい薬は不安神経症の寮生を対象にのみ処方されていました。うつ型の方はまた別のメジャー系の薬ではなかったかと。
 私は心臓神経質でしたから、セルシン2mg を最初は1日3回、2週間後は朝晩2回に減りその後1日1回夜のみとなりました。1か月弱で投薬はなしに。
 その投与の仕方です。看護婦が1回1回、お盆に薬と水の入ったコップを持ってきてくれました。臥辱のときも作業している時もです。看護婦の目の前で服用します。看護婦はそれを確認してから帰っていきます。
 薬はそれだけです。
 退院して、一時症状がぶり返した時があり、当時はセルシンを薬局で買うことができましたので日常生活の中で補助的に服用したことがあります。これは鈴木先生に内緒ですが。

 余談ですが、作業作業の連続ですから、私は「先生腰がひどく痛みます」と告げましたら、「森田療法は腰が痛むのです。普段からだを使っていない人がおおいですからね」
「アリナミン」を買物係に頼んで買ってきて貰いなさい、病院として処方すると価格が高いものになってしまうから、と。
 鈴木学校の当時の薬事情です。

 神経質流儀 様  四分休符先生

 ふフフ...そうでしたか。私は昭和53年です。粉薬でしたので内容はわかりませんでした。不安神経症及びヒポコンドリーです。パニック障害です。治癒しやすいと言われましたが...

 で、思い出しました。並んでそれぞれ看護師さん?の前で服薬するのですが...
 一人、お仲間さんで「服薬した」つもりを演じていた人が。彼女曰く、薬で治るものではない。断言していました。短期間の入院でしたが、追体験にはよく来てられました。心臓神経症でした。

 確かに、そうだな、と今解るのですが、でも多分、服薬は助けにはなっていたのかも、です。私はその後も鈴木先生のところを離れても服薬し続けるのですが。

 神経質流儀様は克服されたのですね。おそらくパニック障害の範疇だと思うのですが。どこでどうなったか、私は約半世紀経とうとして多分生涯心療内科通院です...

神経質流儀 様

 貴重な御体験を御披露いただきありがとうございます。

 昨今はBz(ベンゾジアゼピン)系抗不安薬の処方は問題視されますが、比較的半減期の長いセルシン2mgを1日3回→2回→1回と漸減して中止していく方法ならば現在でも通用する方法です。不安神経症(パニック障害)の人にはまずは少量のBz系を投与して動きやすくして森田療法を導入し、良くなったら漸減中止していくのは合理的です。
 「普段から体を使っていない人が多い」は頭でっかちで行動が伴わない神経質には言えることだと思います。アリナミンを買物係に頼むようにと指示されたのは面白いですね。
 yukimiya様の「高貴袋」は知準先生のユーモアだったのかもしれません。粉薬だと、乳糖を混ぜて、だんだんBzあるいはメジャートランキライザーの量を減らしていくという方法をとられた可能性も考えられます。

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