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2023年8月31日 (木)

神経質礼賛 2140.石川数正出奔の謎

 大河ドラマ「どうする家康」は織田信長の次男・信雄の依頼に応じて兵を出した家康が秀吉と激突する1584年の小牧・長久手の戦いまで話が進んでいる。家康方は兵力では大きく劣っていたが、機敏な行動により緒戦で秀吉方の池田恒興と森長可を討ち取って勝利を収める。その後は膠着状態が続いて大きな衝突は起きず、信雄が家康に無断で秀吉と和睦したため、家康は兵を引いた。その後、秀吉は朝廷工作を行って関白に就任。家康に上洛して臣下となるよう催促を繰り返す。一方で、家康が従わなかった場合に備えて軍備を固めていた。

 家康の家臣の大部分は秀吉に勝ったのだから上洛の必要はない、と主張していた。しかし、秀吉との交渉に当たり、秀吉の力をよく知っている石川数正は、上洛を勧めた。そうした中、数正は突如夜逃げ同然に出奔し、秀吉に付いてしまう。家康の右腕のような存在だった数正の出奔は従来から謎とされてきた。数正は人質時代からずっと家康を支え続け、桶狭間の戦い後、今川の人質となってしまった瀬名(築山殿)と信康・亀姫を人質交換交渉で救出し、三河一向一揆の際には父親と袂を分かち浄土宗に改宗して家康を助けた。以降も、もう一人の重臣・酒井忠次(1515話)とともに多くの戦で活躍した。

 三河武士たちは直情型が多いが、数正は広い視点を持ち冷静に状況判断できる人だった。小牧・長久手の戦い以降、秀吉方と家康方との軍事力の差はさらに大きくなっていった。それに秀吉が関白になったということは、それと戦うのは朝廷・天皇に逆らう逆賊ということになってしまう。何としても戦いは避けなければならない。しかし、家康は酒井忠次らの意見に従って上洛を拒み続けている。となると、自分が出奔して戦いを避けるしか方法がないと判断したのだと思う。軍事機密が秀吉に知られたとなるとすぐに戦うことはできなくなった。家康は上洛して秀吉の臣下となった。そして拠点を浜松から駿府に移した。もし、秀吉と戦いになっていたら、三河も浜松も駿府も戦火に焼き尽くされ、徳川家も滅亡していただろう。その意味で数正は裏切り者の汚名を甘受して忠臣を貫いたとも言えるだろう。

 

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コメント


 四分休符先生

 先生の「家康神経質説」ずうっと頭の隅にありました。
 司馬遼太郎はどのように考えていたか、生誕100年を期に本棚から
取り出して読んでみました。(街道をゆく)
 
 さすがは司馬先生、ずばり書いておられます。

  「智者は、性、臆病と考えていい。
  その人の中の臆病が、敵の意図を忖度させ、情報をあつめさせ、
  事態の本質を察しさせるかのようである。
  若いころの家康は、露骨に臆病だった。ときに茫々と爪を噛みつづけた。
  ときに、劇的なほどに勇者になった。つねに思慮を重ねたすえの切所において、
  そうだった」

  「・・・・・・・要するに三河衆にとって、家康は、自分たちが輔けねば立ちゆかぬ
  と思わせるものをもっていたという。つまりは、ときに家康は露骨に臆病だった
  のではないか」

   さすが司馬先生「家康神経質説」を卓越した文章(詩的でさえある)で
  明らかにしている。持って生まれた性格資質と、幼少期の恐怖に満ちた環境
  とが、神経質をつくりあげたに違いない、と納得した次第です。
   石川数正の忠臣ぶりも、三河武士の家康を思う律儀さゆえのものでもあったの
  のではないでしょうか。

   

神経質流儀 様

 コメントいただきありがとうございます。

 長年、家康と言えば「狸親父」「鳴くまで待とう」のイメージがあまりにも強すぎて、神経質性格であることが隠されてしまってきたのだと思います。小心者で時にはパニックに陥りながらも、家臣たちの声に耳を傾け、ビクビクハラハラのまま行動を続けたからこそ、成功を収められたのだと考えます。今回の大河ドラマは史実との乖離が大きすぎるとの批判が強いですが、家康の神経質性格をある程度表現できているところは評価できると思います。

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