神経質礼賛 2180.闇の中に浮かぶ光明
半月ほど前に入院してきた90代半ばの男性。激しい暴言・暴力に加えて拒食・拒薬があって、身体合併症も悪化。入院を任されて正直言って困ったなというのが本音だった。幸いにして一時的に使用した貼付剤が奏功して穏やかになり、食事も摂れ、薬も飲んでくれるようになった。日中はホールに出て過ごしておられる。「上を向いて歩こう」の歌が流れると曲に合わせて手を叩き、体を揺り動かして、楽しそうな表情である。こちらまでうれしくなる。
拙著『ソフト森田療法』の最後の部分は森田正馬先生の生き様をまとめたものだ。そして、最晩年に衰弱して歩けなくなっても小さな乳母車に傘を手にしてちょこんと座りニッコリ笑う森田先生のデッサン風の絵を付け加えた。乳母車だと小さな商店の中にも入っていける。いろいろ見聞きして楽しめるし、乳母車を押してくれる患者さんやお弟子さんの教育もできる。まさに一石二鳥。最後の最後まで「生き尽くす」を実践されたのである。たとえ病魔に侵され弱ってしまっても、四苦八苦はあるがままに、生の欲望を発揮して生命を燃やしていく。楽しみも見つけていく。これが究極の森田療法の姿ではないだろうか。
岡本重慶先生が主宰されている京都森田療法研究所のブログには今月3回連続で「森田療法のディープな世界」が岡本先生御自身の御体験を踏まえて論じられている。モノクロ調の3枚のテーマ写真がとても印象深い。①闇の中に浮かび上がる電車のホームの光。やっと仕事を終えて疲れ切って帰路につくサラリーマンにとっては「やれやれ、もう一息だ」という安心の光だろう。②漆黒の闇に光る「三聖病院」の電光看板。禅的森田療法に救いを求めて全国から集まって来る患者さんたちにとっては荒海の向こうに見える灯台のような存在だったであろう。③黒い雲の切れ間から顔を出し始めた満月。希望が湧いてくる光景である。闇があるから光のありがたみがよくわかる。
「自灯明 法灯明」という言葉がある。釈迦が亡くなる直前に、弟子から「師が亡くなられた後は何を頼りに生きたらよいでしょうか」と問われて、「自らを灯りとせよ。法を灯りとせよ」と答えたと伝わる。森田療法も高良興生院、鈴木知準診療所、三聖病院といった伝統ある入院施設がなくなり、外来治療にシフトしてきた。入院森田を経験していない治療者も増えている。森田療法の敷居が低くなったのは喜ばしい反面、「おはなし森田」にはちょっと違和感を覚える時がある。「いいね」ボタンを押し続けて、実際の日常生活の中での行動に焦点付けて変革を促さなくては、森田療法とは言えないような気がしてならない。時々森田先生の原点に立ち返りながら少しずつ進んでいきたい。
本年も当ブログをお読みいただきありがとうございます。開設以来19年目になります。20周年を目指して続けていくつもりです。来年もよろしくお願いいたします。
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