神経質礼賛 2174.言わぬが全快
対人恐怖の場合は自分がそうであることを人前で告白して、実はその「症状」は大した問題ではないのだと知ることは有意義である(486話)。それに対して身体症状が主訴の神経症では言わぬが仏、言わぬが花、言わぬが全快となることがある。森田先生が治療した患者さんを紹介しよう。
大正十五年の入院に、住吉という五十四歳の婦人があった。この人は慢性腎臓炎で九年間、全く薬を廃した事なく、常に検尿を怠らなかったとの事であるが、入院中に尿中の蛋白やその他の異常は全くないようになった。この婦人の一つの症状として、下腿がビリビリとシビレ感があって非常に気持が悪い。家にいる時には、絶えず看護人に按摩させていたとの事である。入院後も私の家内に、先生もこれだけはおわかりにならないかも知れぬ、毎日ただこのままに、放っておいて治るはずがない、という事を毎日のように繰り言をいう。家内も聞き兼ねて、これから十日間の約束で、決して足のことはいわない事に決めた。それはすべての症状が入院の初めから治るはずはない。必ず一定の日数を経なければならぬ、その間その症状の事をくり返しいえばいうほど、決して治る時節はこないという事を説得したのである。その後患者は時々縁側で、自分の足をなでては、家内の顔と見比べていたけれども、意地になって決してその苦痛を口外しなかった。その後一週間もたってから、今度は不思議ですねえ、不思議ですねえという事を言い出した。それはその足の不快感がいつとはなしに消失してしまった事であります。それがなぜ治ったかという事は患者も不思議であるが、私の家内も本当に不思議に思っているのであります。 (白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.45)
現代であれば、総合病院であれこれ検査を受けて、「異常ありません」と言われて、納得がいかずにドクターショッピングになりやすいような症例である。神経症の場合は症状を訴えれば訴えるほど注意が自分の体に集中し、感覚がますます鋭くなり、意識の狭窄をきたし、さらに注意集中する・・・という精神交互作用の悪循環にはまって症状を固着させることになる。この症例では「症状は言わない」という指導が見事に決まったのである。体には異常がないと診断されたら、「症状」は「まあこんなもの」と受け流して、仕方なしに日常生活に取り組んでいく。そうしているうちに症状は忘れて治っているのである。
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