神経質礼賛 2215.紫式部の適応障害(3)
紫式部日記の前半は中宮彰子の出産前後のルポ記事である。その後の「消息体」と呼ばれる部分では、同じく彰子に仕える女房たちを紹介している。彰子付の女房たちはいわばお嬢様育ちが多くて、そのサロンには上品で抑制的で消極的というムードがあった。そのため上級貴族たちからは「近頃は気の利いた女房がいなくなった」「以前の皇后定子の時代の後宮はよかった」と懐かしむ声があったようである。定子自身が明るい性格で清少納言をはじめとするお付きの女房たちも才気煥発で男性貴族たちと機知に富んだやりとりを繰り広げていたことは『枕草子』で知られるところである。すでに定子が亡くなって十年以上経っているのに、これではいけない、と式部は考えた。清少納言は定子が亡くなって宮仕えを辞めてからも『枕草子』書き続け、それが世に広がっていて理想的な皇后定子サロンのイメージが拡散していたようだ。
日記では彰子付女房たちの紹介の後に有名な三才女評がくる。同僚の和泉式部について和歌は見事であるが品格の問題を書いている。やはり同僚の赤染衛門は非常に高く評価している。それに対して最後の清少納言は「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人」(清少納言ときたら、得意顔でとんでもない人だったようです)とボロクソである。皇后定子は父の道隆が病没し、兄の伊周と隆家が花山院襲撃事件を起こして失脚してしまい、第一皇子を産んでいながら心細い状況に置かれていた。そうした中関白家の没落という事実は一切『枕草子』には出てこない。現代のSNSではないが、良い所だけを切り取っていつまでも素敵な定子サロンが続いているかの印象を与える。清少納言を弁護すれば、お気の毒な定子を盛り立て、さらには亡くなった後も定子を偲んで、スタンドプレーに徹していたのだろう。そのことは紫式部も分かってはいただろうけれども彰子付女房という自分の立場上、容認するわけにはいかず、手厳しい批評となったものと思う。適応障害だった紫式部もいつしか彰子サロンを代表する女房に成長していたのだ。
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