神経質礼賛 2252.藤原道長は隠れ神経質?
藤原道長(966-1028)が晩年に糖尿病と糖尿病性網膜症と思われる視覚障害、さらにはパニック障害に悩まされていたことは413話で紹介した通りである。道長は豪胆な性格で知られている。自筆の日記「御堂関白日記」(道長は関白にはなっていないが)は国宝に指定されていて、大雑把な性格が日記にも表れているという。若い頃、父親の兼家が関白・頼忠の子である公任が才子であるのを羨んで「我が子たちは公任には遠く及ばない、その影も踏めない」と嘆き、兄たちは恥ずかしそうにしていたのに道長は「影など踏まない、面を踏んでやる」と言ったと大鏡に記載されている。また、兄の嫡男・伊周と弓比べをした際には「道長の家から帝・后が出るならばこの矢当たれ」と言って的を当て、さらに「摂政・関白になるならばこの矢当たれ」と言ってまたまた命中させたという逸話がある。しかし、長徳の変で伊周・隆家兄弟が失脚した翌年に、激しい腰痛に悩まされ、一条天皇に辞表を提出したり出家を申し出たりしたこともあった。一見、豪胆そうに見えても、線が細い面も持っていて、時々ストレスによる心身症らしき病気もみられている。実は隠れ神経質でもあったのかも知れない。
平安時代の貴族は今から見れば多くの迷信に縛られた生活をしていた。その意味で現代人よりもはるかに神経質だったと言えるだろう。病気の原因がわからなかった時代であるから、病は悪霊の仕業と考えられ、「治療」には加持祈祷が行われた。密かにライバルに対する呪詛も行われていた。飛鳥時代や奈良時代に比べて血なまぐさい政争は少なくなり、政治生命は奪っても命まで奪わなくはなっているが、菅原道真のように政争に敗れた人物の霊が勝者に祟ると考えられていた。道長も出世して権力を集中すればするほど元政敵たちの怨霊に怯えなければならなかったことだろう。
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