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2024年11月11日 (月)

神経質礼賛 2285.解らなくても解った

 前話で森田先生は講話の際、次のようなことも話されている。

 先生のお室へ皆が集まつて、作業しながら先生の御話を聴いた。先生は、「私は皆さんに話をしたくてたまらないけれども、今の所誰も、話をきゝたいと思ふ人がないから困る。もちろん問はれゝば誰も話をきゝたいと答へる。しかしそれは嘘だ。例へば乞食に『金が欲しくはないか』と問へば、必ず『欲しくてたまらない』と答へる。しかし乞食は、働いて貯金する心は少しもない。金をもらへば、すぐに使つてしまう。貯金する人のみが、金が欲しいといふ事実であつて、乞食の欲しいのは空想であり、気分だけであつて事実ではない。こゝでは『事実唯真』といふ事を最も重んずるのである。皆さんは私に接近しない。少しも話を聴きたいといふテダテをしない。乞食が働かないと同様である」といふ事から、或は先生のお話をきいて、「後で『チツトモ解らなかつた』とか大ベラに告白するやうな人は、本人はありのまゝをいつて正直かと思つて居るけれども、実は『先生が病気をおして、あの様に熱心に話されるのを、解らないといふのは気の毒だ』といふ感じのまゝに、素直に『解りました』といふのが真の正直である。自分の誠の心をおしつぶして、『解らないのを解つたといつては、先生に思ひちがひをされて損だ』といふやうな利己主義一点張りが不正直である」とかいふやうな事や、「疑ひながら・不平ながら、ともかくも・いはるゝまゝに実行する。之を素直といふ」とかいふやうなお話があつた。(白揚社:森田正馬全集 第4巻 p.203)

 解らないのに解ったと言うのは自分を偽るようで許せない、と思う方も少なくないだろう。また、解ったと思われては困るという向きもあるだろう。神経質、特に強迫の方は柔軟性が乏しいので、状況にかかわらず自分の主張を曲げない傾向がある。こんなことを言われると、どんな時も解らなくても解ったと言えということか、と反発する方もいるかもしれない。私も若い頃はそういう面が強かったから、この話を読んでドキッとしたものだ。しかし、これは、あくまでも状況によりけりである。この森田先生の指導は、強迫の人の偏りを補正するための一種の方便と解した方がよいだろう。

 

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