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2024年12月29日 (日)

神経質礼賛 2300.磁気テープの2025年問題

 最近よく言われる2025年問題。国民の5人に1人が75歳以上の後期高齢者となり、超高齢化社会となる。雇用、医療、福祉などの広い領域に深刻な影響をもたらすことを言う。それほど大きなことではないが、朝のニュースを見ていたら、VHSなど磁気テープの2025年問題を話題にしていた。国連教育科学機関(ユネスコ)が「2025年までに磁気テープ映像はデジタル化しないと見られなくなるかもしれない」と警告しているそうである。VHSやβなどの磁気テープは経年劣化が起きる。耐用年数は20年くらいと言われている。さらに保存状態が悪いと内部にカビが生えることもある。デッキにかけた古い磁気テープが切れてしまったり、内部で絡んでしまったりすることもある。それにVHSビデオデッキの製造は終了となっているから調子が悪いからと言って新しいものを買うことはもうできない。もっとも、DVD―Rなどにダビングしたとしても、これまた寿命があるので、動画データとしてパソコンに取り込み、バックアップしておくのが安全である。結婚式、旅行、子供の運動会や発表会など思い出の詰まったビデオテープをビデオダビング店に持ち込む人が増えているという。博物館や教育機関ではもっと深刻のようである。後世に残すべき文化・芸術の記録映像のビデオテープを職員がデジタル化しているが、人手が足りず、デッキも古くなってきて修理しながら悪戦苦闘している様子が放送されていた。

   皆さんの御家庭にもVHSやβの磁気テープはまだ残っていないでしょうか。仕事が年末年始休みになって今日は大掃除という方もいることかと思います。記念に残しているビデオテープはカビが生えているなんてことがないかどうかチェックしてみることをお勧めします。かく言う私も、未使用のVHSテープが数本あったことを思い出した。今後使うことはありえないのだからこの際廃棄しよう。

 今年も何とか月10話のペースで書き続けることができました。お読みいただいた方々に御礼申し上げます。

 

2024年12月26日 (木)

神経質礼賛 2299.墓じまい(2)離壇料

 樹木葬墓を予約したことは以前書いた(2256話)。私と妻の墓と妻の両親の墓の2区画隣り合わせで予約した。義母の墓は藤枝市にあるので、そのうちお寺と話を付けて墓じまいをして樹木葬墓に移そう、という計画だった。ところが、この夏、義父が急に亡くなって、呑気なことを言っていられなくなった。義父の通夜・葬儀の際に藤枝から住職さん・副住職さんが来ていただいた際に話を切り出した。その後、一度ご挨拶に行って自分の子供たちは戻って来る見込みはなく墓の維持が困難になるという事情を説明した。寺で義父の四十九日法要の際には納骨は行わず、今までお世話になった御礼を述べて謝礼を渡し、義母の改葬に必要な(あらかじめ藤枝市役所のホームページからプリントアウトしておいた)改葬許可申請書に署名・捺印していただいた。この謝礼は離壇料と呼ばれ、墓じまいの際にトラブルの原因になりやすい。本来は必要ないという話もあるけれど、寺にとっては檀家が減って大きな収入減になるため、何らかの礼金を受け取りたいのも無理はない。離壇料についてネットで調べると15万円程度とか30万円程度と書かれたものを見かける。それより少々多めの額を包んだ。現実にはさらに石材店にお願いする墓の撤去・石材処分費用や遺骨処理費用もかかる。こちらは見積を出してくれるので安心である。複数の石材店に「相見積」を取る人もいるそうである。

 先日、NHKの「突撃!カネオくん」という番組でイマドキのお墓の話題を扱っていた。樹木葬、散骨、永代供養、マンション型の墓などが人気を集めているという。巨大な前方後円墳型の樹木葬墓地の話題もあった。やはり、墓を継承する人がいない、子孫に迷惑をかけたくない、という理由からそうした墓を選ぶ人が増えている。さすがに墓じまいの際の離壇料の話まではなかった。お寺にかかる「料金」は不透明である。種々の仏事の際にかかる料金は明示していただき、それ以上は志納とするのが合理的でトラブルも防げるのではないかと思うが如何なものだろう。

 

2024年12月22日 (日)

神経質礼賛 2298.あくまでも恥ずかしい

 森田正馬先生の診療所での作業は実にいろいろなものがあったが、特に対人恐怖の人が苦手にしていたのは飼っている小動物の餌となるくず野菜を青物市場へ行って拾ってくることだった。市場の人たちにジロジロ見られたし、時には「いい若い者が何やってるんだ」位のことは言われたかもしれない。26歳の対人恐怖の患者さんは日記に次のように書いている。そして森田先生の評が書かれている。

 宮原君と市場へ野菜拾ひに行く。乳母車に山盛・一杯持ち帰る。恥ずかしいのは、あく迄も恥ずかしい。特に野菜車の下にあるのを、こゞんで取り出す時など、人々が自分等をさげすむやうな目付きをするので、一層恥ずかしい。食後拾って来た大根の整理をする。
評-車の下にあるものでも、なぜもぐり込んで取るか。それは欲しいからであり、取りたいからである。その欲しい心の方面は、少しも認めず、言はず、只恥ずかしいいやの方面のみを主張し、強引に言ひ張るのである。吾々は欲しいと、恥ずかしいと此心の両方面を依故(えこ)ヒイキなく、正しく認めて、素直に境遇に順応すれば、強迫観念はなくなるのである。
(白揚社:森田正馬全集 第4巻 p.331)

 作業は治療のためでなく、必要だからするのだ、というのが森田療法の立場である。恥ずかしかろうが恥ずかしくなかろうが、症状があろうがなかろうが、日常生活の中で目的に沿って行動していくという習慣を身に着けていくのである。これが行動療法だと、症状の出そうな場面にあえて挑んでクリアする曝露療法ということになるだろう。ただ、治療のための訓練としてやっていては、症状へのこだわりを強めてしまうきらいもある。同じように見えるかもしれないが別物である.

 

2024年12月19日 (木)

神経質礼賛 2297 ・・・---・・・

 日曜日の朝、当直明けでまだ病院にいて、TVの日テレニュースをかけていたら、俳優で歌手の菅田将暉さんの弟こっちのけんとさんの「はいよろこんで」という歌が話題になっていた。こっちのけんとさんがインタビューで語っていたのは双極性障害があって、うつの時は自分でもおかしいとわかるが、躁の時は自分ではおかしいとはわからないということだ。会社員を辞め、現在は歌手活動をしておられる。昭和っぽいアニメで歌に合わせて踊っている人たちは踊らされていると感じる。♪「はい喜んで、あなた方のため、はい謹んで、あなた方のために」。学生時代の初めは自分らしく生きていた人たちも就活から別の人間を演じなければならなくなる。そしていつしか「御社のため」の社畜を演じ続けなくてはならなくなっている。「こっち」の自分でなく「あっち」の自分になってしまうのだ。不満や怒りがあっても、もう一人の自分が抑え込む。しかしそれを続けていたら自分が壊れてしまう。歌詞の中にはモールス信号の・・・---・・・(SOS)が出てくる。壊れてしまう前にSOSを発信して助けを求めることも必要である。

 相変わらず新患でみえる若い方はSOSが出せないまま仕事に行けなくなっていることが多い。うつ状態になっていて薬を処方することもあるが、2週間とか1か月の「休養加療を要す」の診断書を書くだけで薬は処方しないこともある。少ない人員で仕事をこなさなくてはならず、上司も多くの仕事を抱えていて部下の面倒をみる余裕がない。昭和の時代の「飲ミニケーション」や令和の「会社LINE」の強要も困るが、双方向のコミュニケーションがないようでは組織は円滑に回らない。歯車だってガチガチだったら回らなくなる。効率を追い求めるだけでなく適度な「遊び」も大切だ。

 

2024年12月15日 (日)

神経質礼賛 2296.ある治療終結

 70代の男性。若い頃に仕事の激務からうつ病になって精神科を有する総合病院に入院したことがある。結婚はしなかった。50代でも仕事をしながらの父親の看病疲れからうつが再発して同じ病院に入院している。神経質でとても几帳面な人である。仕事を退職して一人暮らししていたが、腰痛に悩まされて引きこもるようになり、気分が落ち込み、食欲低下や不眠に悩まされ、そのうちに自殺念慮も出てきて、心配した近くに住む妹さんに連れられて受診して入院となった。抗うつ薬などの薬物治療で症状は改善したが、作業療法をお勧めしても参加されなかった。試験外泊を繰り返して退院となった。しかし、退院後はひきこもりの生活に戻ってしまった。近所の人に見られると嫌だと言って外出せず、わずかに郵便受けに新聞を取りに行くだけ。見かねた妹さんが食べるものを届けて冷蔵庫に入れていた。下着類は自分で洗濯していたようだが大きなものは妹さんが洗濯していた。外来受診にも本人は来ず、妹さんが来るだけの状態が続いていた。

 ところが、その妹さんが胃がんで倒れてしまった。少し離れた所に住んでいるもう一人の妹さんが病院に来るようになった。そのうち本当に久しぶりに本人が受診された。転ばないようにと杖をついてはいたが、しっかりした足取り。声にはハリがあり、退院した時よりずっとお元気そうだ。面倒をみてくれていた妹さんが倒れてからは「自分でやらなければ」と仕方なしに料理や洗濯などの家事をし、ゴミ出しもし、近所を散歩するようになった。そうしたら不思議と調子がよくなってきたのだそうだ。「このところ薬もずっと飲んでいません。もう大丈夫です」と笑顔で話される。握手をして治療終結とした。結局、「仕事が人を治す」(154・1275話)、「健康人らしくすれば健康になれる」ということなのである。

 

2024年12月12日 (木)

神経質礼賛 2295.6年ぶりの京都(3)

 烏丸で阪急電車に乗ったのはちょうど午後2時。当初の計画ピッタリである。桂で嵐山行に乗り換えて一駅。上桂で下車。目指すは竹の寺の別名がある地蔵院という寺である。徒歩12分。上り坂なので少し疲れが出る。ここは一休さんが生れてから6歳頃まで母親と住んでいた所だ。一休宗純は後小松天皇の皇子だったが、母親が南朝の関係者(一説には楠木氏とも)だったため、讒言にあって御所を出て、この地で育てられた。竹の寺の名の通り、よく手入れされた高い竹の林に西日が当たって逆光で見ると美しい。楓の紅葉や庭の苔も美しい。墓地の入口にわりと新しい一休さんの母子像があった。ここは室町幕府の管領だった細川頼之が建立した寺なので、その子孫である細川元総理の揮毫した書もある。茶室の猪目窓はハート形で人気があるらしい。現在の住職の奥さんは音楽をやっている方で、寺ピアノがあって、予約すれば自分で演奏して曲を奉納することもできるとのことだ。観光客が大勢来る所ではないので落ち着いていて良かった。また同じ道を歩いて戻り、阪急電車で烏丸に戻る。

 烏丸駅から少し北に歩き、六角通を右に入るとすぐに六角堂がある。さらに進み、堺町通りを北に入るとイノダコーヒ本店がある。ここで一休み、一休み。旧館に入るとレトロな雰囲気に溢れている。きびきび動いているボーイさんも昔風に「お給仕さん」と呼びたくなる。私が注文したのはラムロックというケーキ。ナッツ入りのカッチリした生地にラム酒を浸み込ませ周りをチョコレートでコーティングしたものだ。セットのコーヒーは砂糖とミルクを頼んだら、最初から入れて供された。これは初めての経験である。コーヒーはとても濃厚な味である。私は今年インフルエンザにかかって以来嗅覚が麻痺してしまっているので、残念なことに香りを楽しむことができなかった。今度は四条駅で地下鉄に乗る。中学生位の女の子が妻に席を譲ってくれた。後で「そんなにおばあさんに見えるのかなあ」とショックを受けたようだった。京都駅で降りて伊勢丹の地下で夕食とお土産を買いこみ、帰りの「ひかり」に乗車。歩数は2万3千歩。とても充実した一日を過ごせた。神経質らしく事前にいろいろ調べて計画を立てた効果があった。

 

2024年12月 8日 (日)

神経質礼賛 2294.6年ぶりの京都(2)

 哲学の道を北に向かって歩いていく。若い頃は逆に銀閣寺の方から南向きに歩いていたものだ。一人で歩いていて、いつかは彼女と歩く日も来るのかな、やっぱり無理かなあ、などと思ったものだ。いつの間にか老人になってしまった夫婦が歩いていく。川べりの紅葉が鮮やかである。叶匠寿庵へ渡る橋の上にボランティアガイドの男性がいて、木の葉の舟を作って川に流していた。舟は紅葉のトンネルの下をゆっくりと流れていく。道路部分は時折自転車や郵便配達のバイクが通っていくけれども自動車は通れないので安心して歩ける。川沿いの遊歩道部分は二人並んで歩けるように敷石が並べてある。反対側から来た人とすれ違うには左右どちらかに避ければ済む。昔よりちょっぴり喫茶店や土産物屋が増えた感じはあるけれども、それでも落ち着いた感じで良い。銀閣寺に近づくにつれて、植えられている木は楓から桜に変化していく。春も良さそうである。

 次なる目的地は白沙村荘。予定より20分ほど遅れていたため、昼食を先に済ませることにした。予約していた店で簡単なコース料理を食べる。他の客はいなくて、ゆったりできた。白沙村荘は日本画家・橋本関雪(1883-1945)の自宅兼アトリエのあった所で、三つの池を配した広い庭園の中に美術館、茶室、持仏堂などの建物がある。紅葉を楽しみながら庭園を一周してから美術館に入る。関雪の作品の他、コレクションが展示されている。2階に上がると庭園全体と東山のパノラマが広がっている。送り火で有名な大文字山も見える。テラスに出てしばし見とれる。美術館を出ると、すぐ銀閣寺前バス停がある。道路反対側にはタクシー乗り場があって客待ちのタクシーがずらっと並んでいる。だいぶ遅れて到着した市バスに乗って四条烏丸に向かう。

 

2024年12月 7日 (土)

神経質礼賛 2293.6年ぶりの京都(1)

 一昨日の公休日を利用して日帰りで京都へ行った。いつも年一回は京都に日帰りで行っていたのがコロナ流行で行けなくなり、6年ぶりである。以前はJR東海の50歳以上限定の格安セットがあって、「こだま」のグリーン車利用で3000円位の食事クーポンが付いてくるというものを利用していた。残念なことに今年からなくなってしまったので、「ひかり」の指定席を押さえておいた。普段通勤で乗っている列車を見送り、次の「ひかり」に乗車。家でいつもと同じ朝食を食べているが、さらにコンビニで買ったおにぎりで腹ごしらえして長時間の歩きに備える。8時ちょうどに京都駅着である。地下鉄を乗り継いで蹴上へ。南禅寺はもう近い。例年ならば紅葉は落ちてしまう時期ながら、うれしいことに今年は赤や黄色の紅葉がまだ残ってくれていた。前回行った南禅院ではなく、方丈へ。石庭や襖絵をゆっくり見ることができた。地味な石庭も鮮やかな赤色の楓の木が一本あるとずいぶん違った印象を受けるものだ。

   次は紅葉の名所、永観堂(禅林寺)へ。境内に入ってすぐ、一面鮮やかな赤色の紅葉が広がっているのが目に飛び込んで来る。JRの「そうだ京都行こう」のCMで深紅の紅葉の画像を見て、てっきりフィルターを使って鮮やかな色に加工しているものとばかり思っていた。実際にそうなのだと思い知らされた。観光客は多いが、12月だけあって、ひどく混雑しているほどではない。期間限定の寺宝展も開催されていて、見るものが多い。ただし、建物の中を歩く時間が長く床の冷たさが足に伝わってくるので、厚い靴下を履いてくれば良かったなと思う。最後に「永観遅し」と横を向いたみかえり阿弥陀像を拝む。永観堂を出て坂道を上がって行くと哲学の道に入る。

 

2024年12月 5日 (木)

神経質礼賛 2292.憂しと見つつも永らふるかな

 大河ドラマ「光る君へ」はもう少しで最終回になる。ドラマ上では紫式部の娘・賢子が自分に代わって宮仕えを始め、式部自身は須磨・明石・大宰府を目指して旅に出る。そこでは1019年刀伊の入寇の争乱に巻き込まれる。脚本家は何が何でも「紫式部の大冒険」にしなければ気が済まないようだが、晩年になってから遠路、旅に出る人ではないように私は思う。

 紫式部の生没年は不明で諸説ある。生年は970年から978年の間ということになっている。没年は藤原実資の小右記に「越後守為時女」なる女房が取り次いだと1013年の記録が最後の記録なので、三條天皇の御代の1012年~1016年頃に亡くなったと考える説が以前から有力である。1016年には父・為時が出家していて、源氏物語の現代語訳を最初に行った与謝野晶子はその年に亡くなったのだろうと推定している。1017年説、1019年説、1021年説、1031年説などもあるけれども、そこまで生きていれば何らかの記録やエピソードが残っていてもおかしくないはずである。やはり40歳位で亡くなっているのではないだろうか。

 自選の紫式部集という歌集の最後の歌は、
いづくとも 身をやる方の 知られねば 憂しと見つつも 永らふるかな
(この世には自分の身の置き場もありませんが、やるせないと思いながらも私はこれまで生きてきました)
である。式部が自分の人生を振り返って述べた最後のメッセージと言えるだろう。生まれた以上、老・病・苦・死から逃げられない。たとえつらくても今を生きて、生き尽くしていくほかはないのである。

 

2024年12月 1日 (日)

神経質礼賛 2291.百分の一治った

 対人恐怖の人は自己評価が低く、他人の思惑をあれこれ考えがちである。そして、他人と自分を比較して、周りの人はうまくやっているのに自分だけが苦しんでいる、という差別観で見てしまいがちである。

 森田先生が重症の対人恐怖の治療例の日記を示している。23歳男性、17歳で旧制中学3年の時に肺尖カタルで退学して以来、対人恐怖にかかり家人ともほとんど話をせず家に籠っていた。入院して絶対臥褥終了(起床)第1日目の日記には人の思惑を気にしている様子が書かれているが、森田先生は「それでよし」とコメントされている。さらには、

・・・自分の症状を点検して見るに、自分は純粋の神経質ではなく、変質の徴候の多分にある事を認めてゐた。恐らくは神経質と先天性の抑鬱症との合併だらうと想像して居た。入院して他の神経質の患者を見るに、その想像は益々強くなつた。現入院患者で、赤面恐怖の人は幾人も居るが、皆相当に快活で、話もよくする。自分のやうに沈鬱で黙りこくつて居る人は一人も居ない。
 と書いているが、森田先生は
「このやうに細かく自己観察の出来るものは、神経質より外にはない。神経質はお互いに、人を見て此やうに考へるもので、只自分一人が苦しくて、人は皆楽しいと羨むのである。」とコメントされている。(白揚社:森田正馬全集 第4巻 p.256-257)

 この人は、森田先生の講話や指導を細かく記載して頭では理解できているが、今ひとつ行動が伴わない面があって、第54日で中途退院となった。退院7日後に送られてきた手紙には家族とよく話すようになり、何年も行ってなかった伯母の家へも行ってきた。とにかく私は2か月前の私ではないように思うが、対人恐怖はまだ良くなっていない。百分の一位は良くなったと思う、と書かれていた。かなり良くなったはずだが、百分の一良くなったという表現が面白い。その先はどうなっただろうか。まだ百分の一しかよくなっていないのだから、と行動を積み重ねていけばどんどん良くなって、誰もが苦しみながらも行動しているのだ、という平等観に変わっていったことだろう。

 

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