神経質礼賛 2291.百分の一治った
対人恐怖の人は自己評価が低く、他人の思惑をあれこれ考えがちである。そして、他人と自分を比較して、周りの人はうまくやっているのに自分だけが苦しんでいる、という差別観で見てしまいがちである。
森田先生が重症の対人恐怖の治療例の日記を示している。23歳男性、17歳で旧制中学3年の時に肺尖カタルで退学して以来、対人恐怖にかかり家人ともほとんど話をせず家に籠っていた。入院して絶対臥褥終了(起床)第1日目の日記には人の思惑を気にしている様子が書かれているが、森田先生は「それでよし」とコメントされている。さらには、
・・・自分の症状を点検して見るに、自分は純粋の神経質ではなく、変質の徴候の多分にある事を認めてゐた。恐らくは神経質と先天性の抑鬱症との合併だらうと想像して居た。入院して他の神経質の患者を見るに、その想像は益々強くなつた。現入院患者で、赤面恐怖の人は幾人も居るが、皆相当に快活で、話もよくする。自分のやうに沈鬱で黙りこくつて居る人は一人も居ない。
と書いているが、森田先生は
「このやうに細かく自己観察の出来るものは、神経質より外にはない。神経質はお互いに、人を見て此やうに考へるもので、只自分一人が苦しくて、人は皆楽しいと羨むのである。」とコメントされている。(白揚社:森田正馬全集 第4巻 p.256-257)
この人は、森田先生の講話や指導を細かく記載して頭では理解できているが、今ひとつ行動が伴わない面があって、第54日で中途退院となった。退院7日後に送られてきた手紙には家族とよく話すようになり、何年も行ってなかった伯母の家へも行ってきた。とにかく私は2か月前の私ではないように思うが、対人恐怖はまだ良くなっていない。百分の一位は良くなったと思う、と書かれていた。かなり良くなったはずだが、百分の一良くなったという表現が面白い。その先はどうなっただろうか。まだ百分の一しかよくなっていないのだから、と行動を積み重ねていけばどんどん良くなって、誰もが苦しみながらも行動しているのだ、という平等観に変わっていったことだろう。
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