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2024年12月 5日 (木)

神経質礼賛 2292.憂しと見つつも永らふるかな

 大河ドラマ「光る君へ」はもう少しで最終回になる。ドラマ上では紫式部の娘・賢子が自分に代わって宮仕えを始め、式部自身は須磨・明石・大宰府を目指して旅に出る。そこでは1019年刀伊の入寇の争乱に巻き込まれる。脚本家は何が何でも「紫式部の大冒険」にしなければ気が済まないようだが、晩年になってから遠路、旅に出る人ではないように私は思う。

 紫式部の生没年は不明で諸説ある。生年は970年から978年の間ということになっている。没年は藤原実資の小右記に「越後守為時女」なる女房が取り次いだと1013年の記録が最後の記録なので、三條天皇の御代の1012年~1016年頃に亡くなったと考える説が以前から有力である。1016年には父・為時が出家していて、源氏物語の現代語訳を最初に行った与謝野晶子はその年に亡くなったのだろうと推定している。1017年説、1019年説、1021年説、1031年説などもあるけれども、そこまで生きていれば何らかの記録やエピソードが残っていてもおかしくないはずである。やはり40歳位で亡くなっているのではないだろうか。

 自選の紫式部集という歌集の最後の歌は、
いづくとも 身をやる方の 知られねば 憂しと見つつも 永らふるかな
(この世には自分の身の置き場もありませんが、やるせないと思いながらも私はこれまで生きてきました)
である。式部が自分の人生を振り返って述べた最後のメッセージと言えるだろう。生まれた以上、老・病・苦・死から逃げられない。たとえつらくても今を生きて、生き尽くしていくほかはないのである。

 

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