神経質礼賛 2298.あくまでも恥ずかしい
森田正馬先生の診療所での作業は実にいろいろなものがあったが、特に対人恐怖の人が苦手にしていたのは飼っている小動物の餌となるくず野菜を青物市場へ行って拾ってくることだった。市場の人たちにジロジロ見られたし、時には「いい若い者が何やってるんだ」位のことは言われたかもしれない。26歳の対人恐怖の患者さんは日記に次のように書いている。そして森田先生の評が書かれている。
宮原君と市場へ野菜拾ひに行く。乳母車に山盛・一杯持ち帰る。恥ずかしいのは、あく迄も恥ずかしい。特に野菜車の下にあるのを、こゞんで取り出す時など、人々が自分等をさげすむやうな目付きをするので、一層恥ずかしい。食後拾って来た大根の整理をする。
評-車の下にあるものでも、なぜもぐり込んで取るか。それは欲しいからであり、取りたいからである。その欲しい心の方面は、少しも認めず、言はず、只恥ずかしいいやの方面のみを主張し、強引に言ひ張るのである。吾々は欲しいと、恥ずかしいと此心の両方面を依故(えこ)ヒイキなく、正しく認めて、素直に境遇に順応すれば、強迫観念はなくなるのである。
(白揚社:森田正馬全集 第4巻 p.331)
作業は治療のためでなく、必要だからするのだ、というのが森田療法の立場である。恥ずかしかろうが恥ずかしくなかろうが、症状があろうがなかろうが、日常生活の中で目的に沿って行動していくという習慣を身に着けていくのである。これが行動療法だと、症状の出そうな場面にあえて挑んでクリアする曝露療法ということになるだろう。ただ、治療のための訓練としてやっていては、症状へのこだわりを強めてしまうきらいもある。同じように見えるかもしれないが別物である.
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