神経質礼賛 2304.四苦八苦
岡本重慶先生の京都森田療法研究所のブログが年末に更新されていた。大きく書かれた「四苦八苦」の題字が目に飛び込んでくる。岡本先生は、森田療法で救われなかった人たちにも目を向けられ、「人間の四苦八苦に対して森田療法は何ができるのか、何をしてきたのか。四苦八苦に向きあってこそ、森田療法であろう」と厳しく問題提起しておられる。
森田先生の色紙に次のようなものがある。
ニイチェ曰く
南風よ起これ 北風よ来い 暴風よ渦巻け 我は敢然として其中を歩まん
形外曰く
南風は涼し 北風は寒し 暴風は恐ろし 我は只そんな事いって居るひまなし
ニーチェのように人生の苦に対して敢然と立ち向かうのでなく、苦しいものは苦しいまま、それはそのままで、今やることをやっていく、というのが森田の姿勢である。森田先生は次のように述べておられる。
「なりきる」といふ事がある。苦痛其のものに・なりきれば、「山に入つて、山を見ず」といふやうに、比較する何物もないから、只それきりのものである。然るに「これ位の事は、我慢しなければならぬ」とか、「之では、とても耐(こら)えきれない」とか、苦痛の大小・軽重を比較・批判する時には、其處に苦痛は、客観的に、眼前にありありと現出して、益々耐えられないやうになる。又客観的の表現としては、「苦痛を甘受する」とかいつて、「苦いものを甘く感ずる」といふやうな言語の矛盾にさへも陥る事がある。(白揚社:森田正馬全集第7巻 p.348)
神経質人間は苦に対して敏感である。自分ばかりが苦しんでいるという差別観にもとらわれやすい。そこで、あえて苦を不問にふし、生の欲望を燃焼させることで、現実への適応力を高めることは意義のあることだ。結果的には苦への有力な対処法になっている。苦に対する「かわしの受け」と言えるかもしれない。しかしながら、あまりにも苦が大きければ、それに押しつぶされてしまうし、生の欲望のエネルギーが弱っている時にはそれを求めるのは無理がある。外来のうつ病患者さんで、次々と大きな不幸に見舞われて打ちひしがれているような人の前では私は無力である。一時言葉を失い、一緒に涙を流してしまうこともある。辛さに共感し、にもかかわらず何とか踏みとどまって生の炎を燃やし続けておられることを称え、ねぎらうのが精一杯である。私も岡本先生の問に対する答えは持っていない。ただ、これからも、その人の状態をみて、不問の対応が適している人にはそうしたアドバイスをしていくつもりである。また、健康的な部分を少しでも充実させて行こうという森田の基本姿勢は万人にとって有益だと思う。
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