神経質礼賛 2312.原因の如何を問わず実践第一
強迫観念は不安を呼び起こす好ましくない考え、イメージ、衝動が頭の中に繰り返し割り込んでくることをいう。実際の体験が引き金になることが多い。例えば車を運転中にたまたま道路から衝撃を受けて、もしかして人を轢いてしまったのではと心配になってそのことが頭から離れなくなるようなものである。それをそのままにしておけば消失していくのだが、同じ所に戻って確認するような強迫行為をしてしまうと深みにはまっていくことになる。
実際の体験はなくて本で読んだだけでも気になり続ける人もいる。森田正馬先生のもとに講談雑誌の読物「女給可愛や盗んでまでも、恋の大穴五萬円」を読み、その金額が気になって仕方がないと訴える25歳の農業の男性からの手紙に対して次のように返信しておられる。
治療上の直接の要点は、自分の不快や不安の気分を一層するために、決して色々に判断し或は研究して之を解決しやうとしてはなりません。只不安、苦悩のまゝに日常の仕事をし、又は自分の好きな事をして日を送れば」よいのであります。
それは例へば、家康の家訓の「重きを負ひて遠きを行くが如し」で、苦痛をしのびながら、日常の生活をして行けばよい。タッタそれだけの事です。
色々理屈を知るために、却つてあやまりたる人生観におち入り、強観(強迫観念)となるので、むしろ何も知らないで人並にやつて行けばよいのです。実際に治るのに、只其実行だけでよいのですけれども、しかし人は例へば畳のヤケ穴でも、気が付かなかつた前には何でもないものが、一度偶然に気がついて目に見へれば、其後は之が見へない様に気にならぬ様にする事の出来ぬと同様に、一度出来た知識は其まゝ思ひすてる事も、忘れる事も出来ません。況んや強観に於ておやです。仕方ないから只苦しいまゝにこらへてやつて行く外ありません。(白揚社:森田正馬全集第4巻 p.576-p.577)
難しい理屈はいらない。気になるまま、それを消そうとあくせくせず、普通の生活を送って行くのが強迫観念の最善の治療法なのである。
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