神経質礼賛 2323.自灯明 法灯明
朝、通勤で通りかかるお寺・華陽院の掲示板に静岡仏教徒大会のポスターが貼ってあった。華陽院は家康の母方祖母・源応尼(於富の方)が眠る浄土宗の寺である。以前は住職さん(私の中学の時の1年後輩)が有名な和歌や仏教的な標語を書いて掲示していたが、最近はお忙しいのかもっぱら宗派提供のポスターかイベントのポスターが貼られている。暗闇の中に光る一本のロウソクの写真の横には「自燈明 法燈明」と書かれている。
「自灯明 法灯明」とは、釈迦が亡くなる間際に弟子から「師が亡くなられた後は何を頼りに生きたらいいのでしょうか」と問われて答えた言葉だという。自らを灯りとせよ、法を灯りとせよということだ。すでにお前たちには御仏の教えを授けてある。これからは人に頼らず、自分が信じるものをよりどころとして前に進んでいきなさい、である。
森田療法も同じようなところがある。病院やクリニックで森田療法の指導を受けたり、生活の発見会などで先輩から指導を受けたりしても、最後は自分で道を切り開いて行かなくてはならない。まずは教えられた通りに行動していく。そして、いろいろ自分なりの工夫をしていく。それでも行き詰った時には最初の教えに立ち返ってみる。武道の極意「守破離」(598話)の繰り返しとも言えるだろう。
通勤のため華陽院の横を歩いて駅へと向かう生活はあと1か月で終わりとなる。静岡から三島に23年間、掛川に5年間新幹線通勤していた。4月からは市内のクリニックで働かせてもらう予定になっている。これからは先輩医師から教えを受ける機会がぐっと減る。まさに自灯明 法灯明である。
« 神経質礼賛 2322.墓じまい(3) | トップページ | 神経質礼賛 2324.主観の暴走 »
コメント