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2025年9月11日 (木)

神経質礼賛 2385.本多忠勝の「死にともな(死にたくない)」

 森田正馬先生が「死にたくない、死にたくない」と言って最期まで生き尽くそうとされたことはこれまで何度か書いてきた。名僧の一休さんや仙厓さんも「死にともな(死にたくない)」と繰り返し述べていた話も有名であるが、意外な人物も「死にともな」と言っていた。徳川家康の家臣で徳川四天王の一人、本多忠勝(1548-1610)である。忠勝と言えば家康家臣の中で最も勇猛な武将であり、蜻蛉(とんぼ)切という銘の長さ6mの大槍を使いこなし、生涯57回の戦でかすり傷一つ負わなかったと言い伝えられている。家康の大ピンチを何度も助けている。織田信長や豊臣秀吉からもその能力を高く評価されていた。本能寺の変の際、家康がわずかの側近とともに堺にいて、そのままでは明智光秀勢に襲われてしまうので、知恩院へ向かい切腹するしかないと決めたが、家康を説得して伊賀越えで三河に生還させたのも忠勝だった。小牧・長久手の戦では、わずか五百騎で秀吉の大軍の前に立ちはだかり、馬を川に入れて悠々と口を洗わせたため秀吉は攻撃をやめさせたという話もある。家康の関東転封後には上総国大多喜十万石を与えられ、関ヶ原の戦ののちに伊勢桑名十万石に移っていて、民政にも優れ桑名藩創設の名君とされている。晩年は眼病を患い、病気がちだった。その辞世の句は「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思へば」だという。自分より年上の主君・家康公より先に死ぬに死ねない、ということだ。

 忠勝というと大胆な豪傑というイメージがあるけれども、必ずしも無謀な戦いを挑んだわけではなく計算して動いていた面もあるのではないか。そうでなければ負傷どころかいくら命があっても足りない。また、桑名の築城や街づくりに才覚を発揮した面をみても、意外と神経質な面も持ち合わせていたのかも知れない。

 

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