神経質礼賛 2401.一病息災・多病息災
息災とは仏教語では仏力で災害を消滅させること、一般的には身に障りのないこと、達者・無事であることを言う。無病息災という言葉がよく使われてきた。しかし、一病息災と言って持病が一つくらいある方が無病の人よりも健康に注意し、かえって長生きできる、ということもありうる。加齢につれて持病は増えて行く。かつての同級生と顔を合わせると不健康自慢話で盛り上がってしまう。超高齢化社会となった昨今では多病息災ということも言われる。いろいろな病気を抱えていてあれこれ医療機関を受診して治療を受けていても日常生活が送れていればそれでよし、ということになるだろう。
病気はあってもそこばかり見ないで、健康な部分を活用してできることをやっていき、少しでも充実した生活を送り、生き尽くしていく。それが森田的生き方の究極の姿だと思う。森田正馬先生の晩年の生き様がお手本になるだろう。まだ抗生物質がなかった時代、肺結核は死の病だった。病状の進行に従い、発熱・咳・血痰などの症状が悪化し、衰弱していく。正岡子規のように全身に結核の病変が出現して激しい痛みに苦しむ場合もあった。森田先生は自分を献身的に看病してくれていた奥さんに先立たれるという不幸に見舞われながらも、患者さんの治療・弟子たちの教育・著作を続け、講演の依頼にも応えておられた。臥床していることが多くなり、やがて歩くこともままならなくなったが、乳母車にちょこんと座り、人に押してもらって散歩や買物を楽しんでおられた。この乳母車というのがミソである。車椅子では狭い商店の中に入っていけないが、小さな乳母車ならどこでも入っていける。押してくれる患者さんに「恥ずかしくないか」と尋ね、「平気です」と答えると「そんなことはないはずだ。素直になれ」と諭したという。私だって恥ずかしい。しかし、生の欲望に沿って目的本位に買物や花見をしているのだ。これが「あるがまま」なのだよ、と精神療法を行っていたそうである。
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