神経質礼賛 2414.なぜ生きる
母親の遺品整理はなかなか進まない。施設を引き上げる際の所持品の中に高森顕徹監修『なぜ生きる』(1万年出版)があった。元々家にあった本ではないから職員さんに頼んで買ったものに違いない。転倒・骨折を繰り返して足が不自由になって施設での生活を余儀なくされ、生活のあらゆる面で介助を受ける身になって、生きている意味は何だろうかと考えて買って読んだのだろう。
この本では、親鸞によれば、万人共通の生きる目的は、苦悩の根元を破り、「よくぞこの世に生まれたものぞ」の生命の大歓喜(だいかんぎ)を得て、永遠の幸福に生かされることである、としている。仏教、特に浄土真宗を信奉している人にとっては当然の結論なのかもしれないが、そうでない人にとっては、「そうか」「そうだね」と納得できるものではないだろう。死後に阿弥陀仏がお迎えに来て下さる、と確信できるのであれば、現世では何の不安もなくひたすら「南無阿弥陀仏」を唱えていればよいのはわかるのだが。母がもし生きていたならば、この本を読んだ感想を聞きたかった。
私は「なぜ生きる」「なぜ死んではいけないのか」に対する明確な答えを持っていないし、多分その答えは見つからないだろう、と20年近く前の記事に書いた(134話)。やはり、今になっても答えは出せないでいる。ひたすら生きるだけである。
以前にも紹介したように、神経質者からの手紙に対して森田先生は次のように回答されている。
「自分は何故に生存するか、如何に生きれば人生を最もよく完ふする事が出来るか」といふ事は、古今の詩人哲学者の考へ悩んだ事であり、小生も少年時から長い半生を苦しんだ事です。しかしそれは「自分は」といふ主観のみに閉ぢこもる時に、全く論理のたゝぬ矛盾に墜るといふ事に氣がつかない。之は実は不可能の努力であるといふ事は、自分の心で自分の心を見やうとする事で、自分の眼で自分の眼を見やうとすると同様です。
禅では之を「一波を以て一波を消さんと欲す。千波萬波交々(こもごも)起る」といつて心の葛藤の益々激しくなる事にたとへてあります。(白揚社:森田正馬全集 第4巻 p.582)
« 神経質礼賛 2413.うつ病と診断されるためのマニュアル | トップページ | 神経質礼賛 2415.長い眉毛が一本 »
コメント
« 神経質礼賛 2413.うつ病と診断されるためのマニュアル | トップページ | 神経質礼賛 2415.長い眉毛が一本 »


四分休符先生
宗教はなぜ在るのか。「死からの救済」 曰く 復活 永遠の命 献金したら 有無恐怖... 経験者が語らない限り宗教は無くならないだろう。
なぜ生きると死とはなにか、はほぼ同義語だろう。四分休符先生言われるように生まれたからには生きるしかない。死が忌むものとは死が解らないから。
環境が整い、働くの意味が本来的意味ではなくなって加えて高度西洋医療が本来の寿命を解らなくしている。
片付かない。社会的排泄もしくは社会的墓場へモノを移動させる。思い入れがもしくはモノに執着があるので捨てられない。しかし、生理的排泄は出来るのだから社会的排泄もうまくやっていきたいものだ。
施設の母は言う。「食べて寝て。不健康な生活」「介護されているのね...」「トイレ行きたい」そう、最後の砦だものね、の言葉を飲んで私は返事が出来ない。
ちなみに母は慢性心不全、腎機能低下で落ち着いている。
投稿: yukimiya | 2025年12月13日 (土) 16時30分
yukimiya 様
コメントいただきありがとうございます。
もしも死後の世界があるとしたら、宗教・人種・言語に
関わらず同じことが起きるはずです。宗教は死の恐怖を
和らげるために人類が発明したものだと私は考えていま
す。
たとえ人の助けに頼るとしても、「食べて寝て」生きて
いられるとしたら、生きているというそのこと自体に意義
があるのだと思います。
心臓の能力は正常の3割に落ちている、と言われてい
ますが、「食べて寝て」生きていられるうちはまだできる
ことはいろいろあります。それなりの日々是好日でありま
す。
投稿: 四分休符 | 2025年12月14日 (日) 08時34分