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2026年2月 2日 (月)

神経質礼賛 2432.鳴かぬなら 生きよそのまま ホトトギス

 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康のいわゆる三英傑の性格の違いを表現したホトトギスの句はよく知られている。「鳴かぬならば 殺してしまへ 時鳥(ホトトギス)」の信長、「鳴かずとも 鳴かして見せふ 杜鵑(ホトトギス)」の秀吉、「鳴かぬなら 鳴くまで待よ 郭公(ホトトギス)」の家康。最近、歴史番組を見て知った句がある。「鳴かぬなら 生きよそのまま ホトトギス」これは誰のことを言っているかというと織田信長の13歳年下の実弟・織田有楽斎(うらくさい:本名・織田長益1548-1622)のことであり、有楽斎四百年遠忌実行委員会によって作られたものである。有楽斎と言ってもあまり御存知ない方も多いかもしれない。武士としてよりも茶人・文化人として名が残っている。千利休から茶道を学び、利休十哲の一人に数えられている。大河ドラマでは大坂冬の陣前後に登場して来る。姪にあたる淀殿をなだめて家康と戦にならないよう説得を続けるが、結局は聞き入れられず、淀殿は息子の秀頼とともに滅亡への道を突き進んでしまう。

 有楽斎は信長が暗殺された本能寺の変の際には、信長の嫡男・信忠と共に妙覚寺に宿泊していた。本能寺が明智によって攻撃されたことを知って、信忠は二条新御所へと向かい皇太子を脱出させてから、そこに立て籠もって手勢で明智軍と戦おうとするが、いかにせん多勢に無勢、切腹して果てている。一方、有楽斎は脱出して安土へと逃げ延びた。以後は信忠の弟の信雄に仕え、信雄・家康が秀吉と衝突した小牧長久手の戦いでは家康に助力している。信雄が秀吉に改易された後は、秀吉に仕えた。関ケ原の戦では東軍に属して活躍。家康から大和国内に3万石を与えられるとともに、現在の数寄屋橋付近に屋敷を与えられ、それが有楽町の名の由来とされる。

 どうしても「逃げた卑怯者」という目で見られてしまいがちだが、勝目のない戦で無駄に命を落とすのではなく、生き延びて後々自分なりの活躍の場を作っていったところはもっと高く評価されてもよいのではなかろうか。武士たるもの勝目はなくても戦って切腹するべし、という「かくあるべし」にとらわれず、あるがままに生きた人とも言える。意地を張らずに「そのまま生きよ」というのは私たち神経質者へのメッセージでもある。

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