神経質礼賛 2500.変わる歴史の常識
8月の最終週は産婦人科クリニックが遅い夏休みということで、浜松市美術館の現代アート展を見に行くことにした。8月末だというのに熱中症警戒アラートが出ていて外を歩くのは危険とされていた。浜松まで電車で行き、まずは腹ごしらえ。ちょっと奮発して遠鉄百貨店8Fうなぎ徳という店で鰻茶漬け(ひつまぶし)を食べる。外へ出ると熱風が吹き付ける。美術館へ行く前に、さらにその先にある犀が崖(さいががけ)までバスで行った。
そこは徳川家康が浜松に進軍してきた武田信玄と戦って大敗北を喫した三方原の戦の舞台である。すぐ近くには家康を守って戦死した夏目吉信、本多忠真の顕彰碑が立っている。敗れて浜松城に戻った徳川方は夜中に武田軍に奇襲をかけて一矢を報いた。その際、崖に白い布をかけて橋に見せかけ、武田の兵たちが本物の橋と見誤って崖から転落したとされる。それが現在の町名・布橋になったという。深さ15m、幅30mほどの崖を見下ろすことができる。
小さな資料館には合戦の模様のジオラマがある。以前来た時にこれがあった記憶はない。歴史学者の磯田道史さんがTVの歴史番組で紹介していたもので、ジオラマ作家が地元の小学生たちの助けを借りて製作した。ボランティアガイドの人からビデオを見るよう勧められる。三方原の戦やそこで命を落とした人々の魂を慰める遠州大念仏の話だった。TV画面の下部に紙が貼られていて、家康の「しかみ像」はDVD制作当時の学説に沿ったものであるという注意書きがあった。
しかみ像の話は当ブログでも書き(209話)、『家康その一言』にはモノクロながら徳川美術館の許諾を得て画像を掲載している。家康は三方原の戦でのみじめな敗北を忘れないため、情けない自分の姿を画家に描かせ、座右に置いて慢心の戒めとした、と徳川家に話が伝わっていた。しかし、最近の研究では、それは事実ではなく江戸時代に入ってから描かれたものという見方が強くなっている。
かつて社会や日本史の教科書の源頼朝とか足利尊氏だとされていた肖像画は現在はそうではないと言われているし、厩戸王(聖徳太子)の十七条憲法も死後数十年経ってから創作された話と考えられている。「いい国作ろう」の語呂合わせで覚えた1192年とされてきた鎌倉幕府の成立年は最近では1185年説が有力になっている。新しい史料が発見され、科学的・論理的な検証により、歴史の常識は変化してくるものである。歴史のロマンはあってよいが、やはり事実唯真である。
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