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2025年1月19日 (日)

神経質礼賛 2307.千葉集談会の講演

 昨年、生活の発見会の千葉集談会の方から講演を依頼されて引き受けた。来週1月26日(日)の予定である。連絡を担当されている方はさすがに神経質の行き届いた方で、細かいところまで抜かりなくメールで連絡して下さる。テーマは「神経症と森田療法 付・平安朝の神経質」としている。会場からWeb中継もするとのことで、カメラが向けられるとちょっと緊張するなあ、と少し心配にはなる。すでに生活の発見誌1月号の告知板に掲載されている。主要テーマの部分は、昨年メンタルヘルス岡本記念財団の講演内容に近いもので、おまけの平安朝の神経質では、当ブログで紹介した、菅原道真・藤原道長・藤原実資・紫式部の話である。歴史に名を遺した平安朝の偉人たちも神経質だったということで神経質を礼賛する内容である。

 ところで、昨年の大河ドラマ「光る君へ」に紫式部(ドラマでは「まひろ」)の従者・乙丸役で登場していた矢部太郎さんが描いた絵画・漫画本「光る君 絵」を注文していたのが昨日届いた。矢部さんはお笑いの仕事をされていたのだが、漫画界でも活躍して手塚治虫文化賞を取っておられる。ドラマの中ではまひろの幼少期から晩年までそばに仕える乙丸役。体を張ってまひろを守ろうとするが小柄で非力なためボコされてしまったりもする。純朴で微笑ましいキャラクターには好感が持てる。矢部さん本人の性格がにじみ出ているのではなかろうか。この本の絵や漫画もほのぼのとした感じがいい。各回のドラマのイメージを示す淡い色の水彩画は優しさが満ち溢れ、ドラマ撮影の裏話の漫画があって面白い。薄い本だからあっという間に読み終わってしまうけれど、子供の絵本のように、時々眺めて楽しむことにしよう。

 

2025年1月16日 (木)

神経質礼賛 2306.音楽界の異端児・サティ

 今年が記念年の作曲家は誰だろう、と思って作曲家の生没年を見てみる。サティ(1866-1925)が没後100年、ラヴェル(1875-1937)が生誕150年、ショスタコーヴィチ(1906-1975)が没後50年にあたる。ショスタコーヴィチは神経質ということで138話に紹介している。

 エリック・サティは作曲家の中ではザ・キング・オブ・変人と言えるだろう。パリ音楽院に入学するも、退屈過ぎると言って退学。シャンソン酒場のピアノ弾きになる。片道10kmの距離を黒い上着に山高帽でこうもり傘を持って歩いて通勤していた。護身用に金槌を持ち歩いていたという話もある。白い物しか食べないというこだわりもあった。「ジムノペディ」や「グノシェンヌ」が有名な曲であるが、「官僚的なソナチネ」「犬のためのぷよぷよとした前奏曲」「梨の形をした3つの小品」「胎児の干物」など奇妙な題名の曲を数多く作っている。それまでの音楽理論を無視した平行和音はドビュッシーやラヴェルに多大な影響を与えた。さらには調号や拍子も捨て去っていく。極めつけは「ヴェクサシオン(嫌がらせ)」。840回繰り返して演奏するというとんでもない曲だ。徹夜で弾いても丸一日かかるシロモノである。最期は肝硬変で亡くなるが、整理のために部屋に入った弟と友人たちは異様な光景に驚いた。グランドピアノが2台上下に積み重ねられ、そのうち1台には未開封の手紙がぎっしり積め込まれ、床の上には手紙やはがきや紙切れが散乱し、こうもり傘が100本もあったそうである。これを超える人はなかなかないだろう。
   その点、神経質、特に人からどう思われるかを気にする対人恐怖の人では絶対にマネできない。もっとも強迫の沼にとっぷり浸かって不合理な行動を繰り返す人だと変人の仲間入りしてしまう恐れがあるから注意が必要である。気分はともかく「普通の人」をお手本に行動していくことだ。

 

2025年1月12日 (日)

神経質礼賛 2305.電子カルテのシズテム障害

 あらゆる分野でデジタル化が進んでいるが、時折システム障害(627話)が起きている。銀行のオンラインシステムの障害のために自動支払機でお金が出せなくなったり、キャッシュレス決済システムの障害のために買い物ができなくなったり、飛行機の予約システムの障害のために、運行がストップして多くの人々が足止めされてしまったりする。一旦トラブルが起きると影響が広範囲に及ぶことになる。原因はシステムがハッカーの攻撃を受けてダウンすることもあるが、よくあるのが連休などの際にシステムの更新を行った際にプログラムの不具合が出てくるというものだ。

 医療界でもカルテの電子化が進んでいて、システム障害が起きると診療に大きな影響を受けることになる。一昨日、外来診察を始めて1時間もたたないうちに電子カルテが動かなくなった。担当者が電子カルテのメーカーに問い合わせたり、原因を調べたりしたが、なかなか原因がわからない。待合室には外来患者さんがあふれてしまい、待ちきれずに帰ってしまう人も出始めた。電子カルテなしで診察し、文章を記録して後で入力することになった。事務員さん総動員で前回の処方内容を一人ずつ印刷して、その日の処方に変更がなければそのまま、変更した場合はそれを書き込んで仮の処方箋とし、これまた後で入力することになった。ただでさえ、休み明けで外来患者さんの人数が多い日だ。時間ばかりかかってなかなか進まず、焦りを感じる。障害発生後、2時間ほどしてから原因がわかって復旧してホッとする。「大変お待たせして申し訳ありません」と患者さんにお詫びを述べると「いいですよー。先生こそ大変ですね」と温かい言葉を頂いた。今回の障害の原因はLANのハブの不具合だったとのこと。実は前の勤務先でも同じ原因で電子カルテのシステム障害が起きていたことを思い出す。システムは年中作動しているから、周辺機器の信頼度が問題になってくる。障害発生時の対応をあらかじめ考えておく必要がある。デジタル化がいいばかりではない。

 

2025年1月 9日 (木)

神経質礼賛 2304.四苦八苦

 岡本重慶先生の京都森田療法研究所のブログが年末に更新されていた。大きく書かれた「四苦八苦」の題字が目に飛び込んでくる。岡本先生は、森田療法で救われなかった人たちにも目を向けられ、「人間の四苦八苦に対して森田療法は何ができるのか、何をしてきたのか。四苦八苦に向きあってこそ、森田療法であろう」と厳しく問題提起しておられる。

森田先生の色紙に次のようなものがある。

ニイチェ曰く
南風よ起これ 北風よ来い 暴風よ渦巻け 我は敢然として其中を歩まん
形外曰く
南風は涼し 北風は寒し 暴風は恐ろし 我は只そんな事いって居るひまなし

 ニーチェのように人生の苦に対して敢然と立ち向かうのでなく、苦しいものは苦しいまま、それはそのままで、今やることをやっていく、というのが森田の姿勢である。森田先生は次のように述べておられる。
 「なりきる」といふ事がある。苦痛其のものに・なりきれば、「山に入つて、山を見ず」といふやうに、比較する何物もないから、只それきりのものである。然るに「これ位の事は、我慢しなければならぬ」とか、「之では、とても耐(こら)えきれない」とか、苦痛の大小・軽重を比較・批判する時には、其處に苦痛は、客観的に、眼前にありありと現出して、益々耐えられないやうになる。又客観的の表現としては、「苦痛を甘受する」とかいつて、「苦いものを甘く感ずる」といふやうな言語の矛盾にさへも陥る事がある。(白揚社:森田正馬全集第7巻 p.348)

 神経質人間は苦に対して敏感である。自分ばかりが苦しんでいるという差別観にもとらわれやすい。そこで、あえて苦を不問にふし、生の欲望を燃焼させることで、現実への適応力を高めることは意義のあることだ。結果的には苦への有力な対処法になっている。苦に対する「かわしの受け」と言えるかもしれない。しかしながら、あまりにも苦が大きければ、それに押しつぶされてしまうし、生の欲望のエネルギーが弱っている時にはそれを求めるのは無理がある。外来のうつ病患者さんで、次々と大きな不幸に見舞われて打ちひしがれているような人の前では私は無力である。一時言葉を失い、一緒に涙を流してしまうこともある。辛さに共感し、にもかかわらず何とか踏みとどまって生の炎を燃やし続けておられることを称え、ねぎらうのが精一杯である。私も岡本先生の問に対する答えは持っていない。ただ、これからも、その人の状態をみて、不問の対応が適している人にはそうしたアドバイスをしていくつもりである。また、健康的な部分を少しでも充実させて行こうという森田の基本姿勢は万人にとって有益だと思う。

 

2025年1月 5日 (日)

神経質礼賛 2303.神経質川柳

 生活の発見誌の毎年1月号には発見会川柳が掲載されていて、森田療法ネタばかりでなく時事ネタや加齢ネタも盛り込まれていつも楽しく拝見している。
 私も森田先生の生没年(1874-1938)の語呂合わせから下手な川柳を一句。

あるがまま 嫌な世行く身は 仕方なし

 神経質は嫌なものを嫌でないようにしようとすれば強迫観念に陥りやすい。また、教条的に嫌だと思わないようにすべきだ、とすれば葛藤に悩むことになる。嫌なものは嫌なままでよいと森田先生は教えておられる。

 世の中の現実で、誰もが人並みにそうやっているところの「苦しいままに働く」、それが小学程度、次に「苦しい事はいやである」そのままの事実を認識するのが中学程度、さらに「いやとか好きとかの名目を超越した」のが大学程度である。
 なおついでに、も少し説明を加えておく。
「苦しい事はいや」「手軽にできぬ事は面倒」という事実を、動かすべからざる事とすれば、ありふれの教育家や道徳家のいうように、「いやとか・面倒とか思ってはならぬ」「忍耐力を養わねばならぬ」とかいうような、余計な精神葛藤のむだ骨折りをしなくなり、いやな事は好きなように改良し、面倒な事は、早く仕上げるような工夫をするから、心は絶えず進歩と創造とで引きたつようになるのである。(白揚社:森田正馬全集 第5巻p.653)

 自分自身を顧みると、小学程度から中学程度を行ったり戻ったりしていて、時々幼稚園レベルに落ちてしまうこともあって、なかなか大学程度までには行きつかない。一生「森田小僧」のままで終わりそうである。

 

2025年1月 2日 (木)

神経質礼賛 2302.カレーメシ

 勤務先の年末年始休暇は年末の3日間+年始の3日間と決まっている。6日も休んでしまうと入院したばかりの患者さんはどうなったか、高齢で嚥下状態の悪い患者さんが誤嚥性肺炎をきたしていないか、など気になることばかりである。だから、休みの真ん中あたりで半日サービス出勤をしてしまうのが常である。入院したばかりで拒薬していた患者さんは何とか落ち着いてきたし、年末の最終勤務日に発熱していた患者さんは熱が下がっていて、ほっとする。帰る前に、非常用の保存食を食べていくことにした。豪雨や台風などで新幹線も在来線も運休になって足止めされてしまうと、病院の自室のソファに寝て一晩を過ごすことになる。そんな場合に備えて日清カップメシシリーズのカレーメシビーフを買っておいたのだった。

 カレーメシを食べるのは今回が初めてだ。上のラベルを開けると白い米粒と具とルーの塊が見える。熱湯を注いで5分間待ってから、指示の通り、30秒以上スプーンでかき混ぜて出来上がりだ。米粒はフリーズドライなのだろうか。普通の米に比較するとスカスカした感じではあるけれど、とろりとしたルーに混ざった状態では違和感なく食べられる。味もなかなかいい。これがカレーうどんだったりすると、食べていて汁が飛ばないか気になる(白衣に飛んだら目立って厄介)けれども、カレーメシではその心配はない。カロリーは465kcalで空腹で食べて腹6~7分目といったところだ。食塩相当量は2.9gとカップ麺に比べて少ないのも良い。便利なものができたものだ、と感心する。もっとも、今の病院勤務は今年の3月で終わりになるので、遠距離通勤はなくなり、カレーメシを食べるのは今回が最初で最後になるだろう。

2025年1月 1日 (水)

神経質礼賛 2301.昭和100年

 今年は昭和100年にあたる。私が小学生の頃、「明治100年」にまつわる記念行事がいろいろあり、明治は遠くなりにけりなどといわれたものだが、ついに昭和100年になってしまったのか、と感慨深い。「少年老い易く学成り難し」を痛感する。つい後回しにしているうちに何もせずに過ぎてしまったなあ、と反省することしきり。年月が経つのがどんどん早くなってきた感じがするこの頃である。

 神経質人間はとにかく手を出すのが遅い。いいアイデアが浮かんでも、いろいろと手間を考えて、面倒だなあと思って先送りしてしまいがちだ。慎重だから失敗は少ない代わり、せっかくのチャンスを逃してしまう。 ただし、思い切って行動に移し、一旦動き出したら今度は簡単には止まらなくなる。森田正馬先生が「神経質は重い車」と評された通りである。

 当ブログも強迫的に毎月10話、年120話のペースで書き続けてきた。このペースで行くと、年内には2400話達成、実質20年になる。他愛無いことの積み重ねが意外な成果にもつながることがある。とは言え、書きたいことが複数思い浮かぶ時もあれば、何も書きたい話題がなくて困ったなあ、と思う時もある。そんな時には森田療法で言う「見た所に仕事あり」ならぬ「見た所にブログネタあり」だ。周りを見渡して何とかネタを捻り出している。この適度なプレッシャーと四方八方に気を配る習慣は、ともすれば強迫観念の空回りに陥りやすい私自身の自己治療にもなっているのである。

 本年もよろしくお願いいたします。

 

2024年12月29日 (日)

神経質礼賛 2300.磁気テープの2025年問題

 最近よく言われる2025年問題。国民の5人に1人が75歳以上の後期高齢者となり、超高齢化社会となる。雇用、医療、福祉などの広い領域に深刻な影響をもたらすことを言う。それほど大きなことではないが、朝のニュースを見ていたら、VHSなど磁気テープの2025年問題を話題にしていた。国連教育科学機関(ユネスコ)が「2025年までに磁気テープ映像はデジタル化しないと見られなくなるかもしれない」と警告しているそうである。VHSやβなどの磁気テープは経年劣化が起きる。耐用年数は20年くらいと言われている。さらに保存状態が悪いと内部にカビが生えることもある。デッキにかけた古い磁気テープが切れてしまったり、内部で絡んでしまったりすることもある。それにVHSビデオデッキの製造は終了となっているから調子が悪いからと言って新しいものを買うことはもうできない。もっとも、DVD―Rなどにダビングしたとしても、これまた寿命があるので、動画データとしてパソコンに取り込み、バックアップしておくのが安全である。結婚式、旅行、子供の運動会や発表会など思い出の詰まったビデオテープをビデオダビング店に持ち込む人が増えているという。博物館や教育機関ではもっと深刻のようである。後世に残すべき文化・芸術の記録映像のビデオテープを職員がデジタル化しているが、人手が足りず、デッキも古くなってきて修理しながら悪戦苦闘している様子が放送されていた。

   皆さんの御家庭にもVHSやβの磁気テープはまだ残っていないでしょうか。仕事が年末年始休みになって今日は大掃除という方もいることかと思います。記念に残しているビデオテープはカビが生えているなんてことがないかどうかチェックしてみることをお勧めします。かく言う私も、未使用のVHSテープが数本あったことを思い出した。今後使うことはありえないのだからこの際廃棄しよう。

 今年も何とか月10話のペースで書き続けることができました。お読みいただいた方々に御礼申し上げます。

 

2024年12月26日 (木)

神経質礼賛 2299.墓じまい(2)離壇料

 樹木葬墓を予約したことは以前書いた(2256話)。私と妻の墓と妻の両親の墓の2区画隣り合わせで予約した。義母の墓は藤枝市にあるので、そのうちお寺と話を付けて墓じまいをして樹木葬墓に移そう、という計画だった。ところが、この夏、義父が急に亡くなって、呑気なことを言っていられなくなった。義父の通夜・葬儀の際に藤枝から住職さん・副住職さんが来ていただいた際に話を切り出した。その後、一度ご挨拶に行って自分の子供たちは戻って来る見込みはなく墓の維持が困難になるという事情を説明した。寺で義父の四十九日法要の際には納骨は行わず、今までお世話になった御礼を述べて謝礼を渡し、義母の改葬に必要な(あらかじめ藤枝市役所のホームページからプリントアウトしておいた)改葬許可申請書に署名・捺印していただいた。この謝礼は離壇料と呼ばれ、墓じまいの際にトラブルの原因になりやすい。本来は必要ないという話もあるけれど、寺にとっては檀家が減って大きな収入減になるため、何らかの礼金を受け取りたいのも無理はない。離壇料についてネットで調べると15万円程度とか30万円程度と書かれたものを見かける。それより少々多めの額を包んだ。現実にはさらに石材店にお願いする墓の撤去・石材処分費用や遺骨処理費用もかかる。こちらは見積を出してくれるので安心である。複数の石材店に「相見積」を取る人もいるそうである。

 先日、NHKの「突撃!カネオくん」という番組でイマドキのお墓の話題を扱っていた。樹木葬、散骨、永代供養、マンション型の墓などが人気を集めているという。巨大な前方後円墳型の樹木葬墓地の話題もあった。やはり、墓を継承する人がいない、子孫に迷惑をかけたくない、という理由からそうした墓を選ぶ人が増えている。さすがに墓じまいの際の離壇料の話まではなかった。お寺にかかる「料金」は不透明である。種々の仏事の際にかかる料金は明示していただき、それ以上は志納とするのが合理的でトラブルも防げるのではないかと思うが如何なものだろう。

 

2024年12月22日 (日)

神経質礼賛 2298.あくまでも恥ずかしい

 森田正馬先生の診療所での作業は実にいろいろなものがあったが、特に対人恐怖の人が苦手にしていたのは飼っている小動物の餌となるくず野菜を青物市場へ行って拾ってくることだった。市場の人たちにジロジロ見られたし、時には「いい若い者が何やってるんだ」位のことは言われたかもしれない。26歳の対人恐怖の患者さんは日記に次のように書いている。そして森田先生の評が書かれている。

 宮原君と市場へ野菜拾ひに行く。乳母車に山盛・一杯持ち帰る。恥ずかしいのは、あく迄も恥ずかしい。特に野菜車の下にあるのを、こゞんで取り出す時など、人々が自分等をさげすむやうな目付きをするので、一層恥ずかしい。食後拾って来た大根の整理をする。
評-車の下にあるものでも、なぜもぐり込んで取るか。それは欲しいからであり、取りたいからである。その欲しい心の方面は、少しも認めず、言はず、只恥ずかしいいやの方面のみを主張し、強引に言ひ張るのである。吾々は欲しいと、恥ずかしいと此心の両方面を依故(えこ)ヒイキなく、正しく認めて、素直に境遇に順応すれば、強迫観念はなくなるのである。
(白揚社:森田正馬全集 第4巻 p.331)

 作業は治療のためでなく、必要だからするのだ、というのが森田療法の立場である。恥ずかしかろうが恥ずかしくなかろうが、症状があろうがなかろうが、日常生活の中で目的に沿って行動していくという習慣を身に着けていくのである。これが行動療法だと、症状の出そうな場面にあえて挑んでクリアする曝露療法ということになるだろう。ただ、治療のための訓練としてやっていては、症状へのこだわりを強めてしまうきらいもある。同じように見えるかもしれないが別物である.

 

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