神経質礼賛 2339.藤原賢子(大弐三位)のリア充人生
神経質人間で引っ込み思案のため、実生活ではあまり器用には生きられなかった紫式部(414話・1760話・2213~2215話)に比べて、その一人娘・藤原賢子(大弐三位999?-1082?)は要領よく人生を渡り歩いたと考えられている。生まれて間もなく父・藤原宣孝が亡くなり、母・紫式部は中宮藤原彰子のもとに出仕していた。おそらくは母が引退して代わりに賢子が出仕し、祖父・為時の官職にちなんで越後弁と呼ばれる。賢子は藤原頼宗、藤原定頼ら公卿たちと華やかに交際して浮名を流し、和泉式部の娘・小式部とは一時三角関係になったりもしている。その後、藤原道長の兄である藤原道兼の次男藤原兼隆と結婚し娘を産む。さらに親仁親王(のちの後冷泉天皇)の乳母となる。後に、高階成章と再婚し、娘を産んでいる。後冷泉天皇即位に伴い従三位に叙せられ、夫も太宰大弐に出世している。このため、藤三位・大弐三位と呼ばれるようになる。太宰大弐は大宰府の次官ではあるが、長官である太宰帥は親王の名誉職のことが多く、実質的には長官であり、実入りがよく、いわゆる受領では最高の地位だった。そして、夫から大切にされていたようである。80歳近くなっても歌合に参加し、歌人として名を残している。今風に言えばリア充人生だった。
阿岐有任著『紫式部の一人娘』(文芸社文庫)をようやく読み終えた。平安朝の文学と生活に精通した作者とみえてなかなか読みごたえがあった。この書では賢子の他に3人の女性が登場する。紫式部の兄弟・惟規(のぶのり)の恋人・斎院中将は美人で歌の才能に恵まれていたが、惟規との恋は彼の急死により絶たれてしまう。藤原公任の娘は道長の次男・教通と13歳で結婚し次々と子を産むことを求められて体力を失い産褥死する様子が教通によって彼の打算的な心の内とともに語られる。刀伊の入寇をはねのけた「さがなもの(荒くれ者、手に負えない者)」藤原隆家の孫・元子女王は美貌と才気に溢れ、中宮のもとに宮仕えして帝を寝取ろうと画策するが、中宮が出産直後に急死して計画はついえて出家する。そうした女性たちを見聞きして、賢子はどう生きて行こうか悩み、受け身ではなく自分の力で道を切り開いていこうとする。紫式部の願いを受けた彰子の口利きで結婚した夫・道兼の言いなりにはならず、しっかり自己主張していく。そして、帝の乳母という立場を最大限に生かして時の関白・頼通にも掛け合って自分の手で幸福を掴んでいく。
女性が生きにくい世の中で自己実現を果たしたのは実に見事である。しかし、その基盤を作ってくれたのは神経質な母・紫式部であり、母娘二代での業績とも言えるだろう。
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